2010-12-21

師走

あっという間に年末だ! 今年はブログ書かなかったなー。

今年は何かの"間"にある感じの不思議な一年だった。 自分が大学生じゃない事には慣れた。 でも勿論まだばりばりのジュニアデザイナーで、全く自律して仕事が出来るようなシニアじゃない。 というか、そんなにまだデザイナーですらないし、ビジネスのこともよくわかってない。 ごろんと生々しく、弱々しく、いまいち事の顛末を理解していない成熟していなく能力のない自分がいる。

仕事は忙しかったし、挑戦もあったし、難しかった。 それでも気楽だった。 人と働くってそういう事なんだなと知った。 協力できる事、信頼できる事の力強さを発見した。 リラックスして、いろんなことに挑戦できた。 職場の人達に心底感謝。

今年はたまたまよく日本にも帰った。 日本にいる時と、こっちにいるときと…、本当に生活が違うから、こっちで日本の事を思うと、ほとんどファンタジー小説に出てくる別世界を想像しているような状態になる。 逆もしかり。 随分と、住んでいる所によって生活ってのは変わるものなのですね。

国籍がある国が自分にとっての国なのか、住んでいる所がそうなのか。(現実的に言えば、両方自分の国なんだろう。) そこでも二つの間で、ぷらぷら過ごした感じがする。

税金を払っていて、そして日常生活がある、NZの方が自分の国だという意識が強い。 ここにある共同体に属していると強く感じる。 私が社会的な事で、"私達"というときは、大抵NZにいる人達が含まれる。 日本に対しては"あなた達"。 勿論日本に税金を払って、そして日本で日常生活を送れば、日本に対して愛着を持つようになるんだろう。 日本にいる人達の事を"私達"とよぶんだろう。 そんなもんだ。 そんなもんなんだなぁってのが意外と自分がやってみるまで分からなかった。

人間関係や家族関係でも、変化の途中、結構宙ぶらりんな時期にいる感じがする。

親が子供のころの事を想像すると、ちょっとキュンっとくる。 可愛かったんだろうなぁとかってさ。 親が親になってからの事を思っても、キュンっとくる。 なんて素晴らしい、愛に溢れた親なんだろうって。 でも親が"子供"と"親"の間にいた時の事ってなんだかいまいち想像できない。 要するに、産まれてきた家族と、新しく作った家族の間で、一人でプラプラしていた時期の事がなんだかいまいち想像できないんだ。

だからかなぁ。 何となく自分もその、オリジナルの家族と、新しく作りたい家族の間でプラプラしている、やっけに気楽で、匿名性が強くて、どこの記録にも記憶にもたいして残らない、ゆるーい期間にいるような気がしちゃうんだよね。 すごく面白い。

でも実際は様々な面で、のるかそるかなスリリングな時期なんだけどね、でもどっかやけに気楽だよね。

そういう意味では変わった一年だったなぁ。 後から思い出したら、キラキラした思いでとかがある一年になるのかな。 不思議ね、一年一年、色彩が違う。

2010-12-19

ぽいぽい

 久しぶりに服を捨てまくっている。 無駄な、部屋の垢のような状態になっているいらない服を、勇気を出して捨てている。 

あぁ、なんて虚しい作業! なんて悲しい作業。

なにがこうも虚しくて、なにがこうも悲しいのか。 勿論払ったお金の事を考えるとゾッとする。 新陳代謝が行い終わっていないので、私の服の一部は親のお金を使って買った物だったりする。 もう、本当に申し訳ないよね、こんなゴミになる物に大金使ったって事自体が! 「マジでごめん、もうしないから許して!」と心の中で親に手を合わせて服を捨てて行く。

昔の私の服はいちいち高かったくせに、本当に短いシーズン以外着れないタイプの奇を狙ったのばっかりで、二年以上経った物は、本当に全く着れない。 見るも無惨な物が多い。 馬鹿!! 考えたらずの私の馬鹿!

以前は女性の難民の為に寄付したりしていたけど、穴開いているのとか、あまりにもアヴァンギャルドなワンシーズン用の物とか、貰った方が迷惑だろうと思って今回は捨てている。 ここも虚しいよね。 何考えて買ってたんだろうねぇ。 本当に全く…、当時の自分に「何か計画とかあったんですか?」ってこんこんと問いつめたいよ。

穴が開いていて、ボタンももうなくて、しかも洗濯に失敗して縮んでしまって、クローゼットの奥の奥に一年以上押しつぶされておいてあった物とか、反省材料以外の何物でもないよ。

自分の雑さに、自分の荒々しさに、自分の洗濯の下手さに、そして自分の買物べたさに。 虚しー!

今回のこの作業でさ、もっと計画的に生きる事を決心したよ。 まだ、どう計画したら一番良い結果が出るのか分からないけど、本当に、計画が必要、考えなきゃ…。

そもそもどんな格好をしている自分になりたいのかってあたりから考え始める必要がある気がする…。 

中性的で、おっぱいの形が格好よく見えて、お腹が目立たなくて、頭そこまで悪そうには見えなくて、なおかつ職場で尊敬されるような…、そんな服装がしたいんですが、どうしたらいいんでしょうか。 誰か教えて!

2010-12-14

Poi e!

オークランドに引っ越してきて、すでに二年近くたったけど未だに「所変わればだねぇ」と、町の与えてくれる新しい感覚に頻繁に驚く。 私はいつか慣れるんでしょうかね。

2010-12-01

へんてこなクリスマス

オークランドを一言で表すと、「へんてこ」だと思う。

二年近く住んではいるものの、ほぼ毎日「変わってるなぁ…!」と絶妙に関心させられている。

この間の週末は、初夏で、まだ十一月なのにオークランドの中心部の大通りで子供用のクリスマスパレードがあった。

色んな民族グループのちびっ子達が張り切ってパレードしていた。 結構可愛かった。 でも明らかに変なんだよね。 さすが、文化の無法地帯。 幸せな、しかし、へんてこなパレードだった。




へんてこなわりには、大混雑。




2010-11-25

部屋

巣作りをするのは楽しい。

最近久しぶりに巣作りに対する情熱が戻ってきた。
これはオークランドに引っ越してきてから全く情熱がなかったので、二年ぶりぐらいか。

とても居心地が良い家なので、もっともっと居心地を良くしたいという情熱にかられている。

私は空中庭園みたいな場所が好きだ。 
だから、一階に住むより二階に住みたい。
窓から植物の上の方が見えるのが好きだから。
あと風の吹き込みかたも大切。

そして布が沢山ある部屋が好きだ。
家具の素材は木材と布が良い。
木材ちょっとと、布沢山。
ふわふわしているとなお良い。
どうしてこうも柔らかいものに包まれたいのか。

照明も暖色の間接照明が好きだ。

ベッドにぽーんと飛び込んだ時に、枕元に沢山の枕やクッションがあって、
ちょっと固めのさっぱりとした素材のシーツが肌に触る感じも大切。

小さいときからベッドに入る度に笑い声を上げて喜んだ。
今でもぱりっとベッドメイキングされたベッドに飛び込む瞬間に、嬉しくてたまに声を上げて笑ってしまう。 沸き上がってくる喜びが止められないのだ。 トランポリンで飛ぶ瞬間のお腹がくすぐったくなる感じが、ベッドにぽーんと自分を投げ出す時にもするんだよね。

柔らかくて、そよそよしていて、そしていつも若干温かい環境が好きなのだ。

どうしてこういうのが好きなんだろうと考えるとちょっと分かんなくなる。
小さいときに住んでいた部屋に似ているから?
それともたまたま?

私は小さいときから屋根裏部屋に住んでいた。
最初は大きなテラスのついている小さな屋根裏部屋。
梯子で登る部屋だった。

ダブルベッドを置くと床のほとんどが覆い隠されてしまう部屋だった。
天井の一番高い所がぎりぎり160cmの私が立って頭が当たらないぐらい。
部屋のはじっこに行けば行くほどに(そして部屋のはじっこはすぐそこにある)ギューンと天上が低くなる。

屋根裏部屋の一面は屋根の上にあるテラスに繋がる窓になっていて、テラスは部屋よりも広かった。 そこも私の空間だった。 その二部屋(?)が私の幼少期の部屋。

実家が今の家に引っ越してきてからは、もっと広い、そして頭が天上には当たらない屋根裏部屋があてがわれた。 天窓と、中庭が見える小さな窓がある以外は外部から遮断された、鬱蒼とした感じの部屋。 森の中の家なので、まあ、それはそれで丁度いい。 トトロの穴蔵みたいで好きだ。

両方とも、どこか包まれる感覚のある部屋だった。
子宮のような、繭のような。

部屋には心地よさや、安心感、温かさ、柔らかさを求めてしまう。
どうしてなんだろうね? よっぽど母が恋しいのだろうか。

そういえば、昔、部屋に男の子が来る度に、自分の部屋の女性らしさに驚いたものだ。

私は別に自分の部屋が女性的だとかロマンティックだとか考えずに暮しているんだけど、実際男の子が部屋に入ってくると、自分と身長も違うし、動きも違うし、大概「お花畑に熊が来た…!」って感じになっていた。 そしてとても驚くのだ。 相手の巨大さと、相手の荒々しさに。 街やら学校で会っている時はそんな事感じないから、多分、私の部屋とのコントラストでそう見えているのだ。 ってことはよっぽどフェミニンな部屋を私が持っていたってことだろう。

(ましてや好きな男の子が来た時なんて、もうウルトラドギマギだよねっ! 自分の柔らかい繭みたいな部屋に、自分が世界で一番野生とか生命力とかを感じている相手がいるんだもん。「っか、形が変わるっっ!」って思ってクラクラ。 ああ、今思いだすだけでも、ドギマギしてきた…! あの、好きな人の体とか動きを通して、自分の部屋がものすごく女性的なんだって気がついた瞬間の感じ、ものすごいものがあるよ。)

anyway, 熊からしてみると、「こんなにいい環境があるのか…!」と心打たれるらしく、しょっちゅう来るようになる。 「だって、居心地いいんだもん」という理由で。 だったらお前の部屋も柔らかくて温かい感じにすれば良いじゃんと私は思う。

逆もあるみたいで、私が相手の部屋に座っている所を見ると、私の体の形とか服とか、雰囲気とかとのコントラストで、相手は「うわっ、確かに俺の部屋、明るさとか華やかさとか、色彩が無さ過ぎる…!」って気がつくらしい。

何なんでしょうね、この巣作りの不思議。

どうしてこうも自分の一番大切な感じの感覚が溢れ出てしまうんだろう、部屋の中には。

不思議だー!!

2010-11-21

Who do you think you are?

オークランドの一番大きな図書館の横に引っ越してきてから、毎日会社帰りに図書館に寄っている。 こっちはDVDとかも無料で貸し出してもらえるので、テレビなんかで放送されていたドキュメンタリーなんかを夜寝る前に見たりしている。

Who do you think you are?は、元々BBCが初めた家系図に関するドキュメンタリー番組。 現在は、カナダ版、アメリカ版、アイルランド版、オーストラリア版、イスラエル版、スウェーデン版、南アフリカ版がある。

毎回現在生きている一人の人に焦点を当てて、その人の家系図をひもといていく。 これがめちゃくちゃ面白いのだ。

私が見たのはオーストラリア版なんだけど、目から鱗の連続で、考えさせられるし、毎回世界を見る目がちょっとずつ変わる。 私はオーストラリア史をあまり知らないので、余計に面白いのだと思う。 番組から知らない事を沢山知る事ができる。

オーストラリアは移民の国なので、一人一人の持っている歴史が全く違う。 みんなの御先祖様の来た所も違うし、来た理由も違う。 大げさじゃなくてね、見ていると人類ってなんて凄いんだってあっけにとられちゃうんだ。

例えばRon Barassiっていうオーストラリアのラグビープレーヤーのおじいちゃんが焦点だった回。 傑作だった。

撮影当時74歳だった彼は、父親の記憶がない。 彼が4歳の時に戦争で亡くなっているから。 まず父親に関して調べる事から番組は始まる。 色んな公的な書類を見つけていき、最終的に戦争で同じ隊にいて、彼が亡くなる所を見ていた隊員を見つけ、色々な話しを聞く。

次に父方の祖父の事を調べていく。 そして、祖父と曾祖父の関係、曾祖父と、高曾祖父とさかのぼっていく。 どうしてオーストラリアに来たのか、どこから来たのか、もっと正確に言うと、どこのどこから来たのかって具合に段々と自分の家系図を通して自分の産まれてきた背景を知っていく。

彼の父方の家系はスイスのイタリア語圏から、オーストラリアで当時おこっていたゴールドラッシュを追っかけて移住してきた人達だと分かる。 (地球の裏側からだよ! 200年近く前に当時の技術で!! この時点で結構素直に人間ってすごいと感心してしまう。) しかしスイスで聞いたゴールドラッシュは噂でしか無く、地球の裏側のとんでもなく過酷で、どこともつながりの無いような未開の地で、その移民達は何年も失敗に失敗を重ねて行く。 とんでもない努力と重労働は水の泡。 なので今度は果樹園を始め、それは成功していく。 この果樹園はRonの覚えている祖父の代まで続く。

もう、この時点で最近仕事が難航している私は、この不屈のフロンティアスピリッツに感動し、励まされた。

地球の裏側の未開の地で情報やらから遮断され、意味の無い巨大な穴をひたすら数年続け、しかもそれが無駄な努力だったとかって、もう、サーバーが上手く動かないとか、本の製本がずれるとかっていう私の悩みと比べ物にならないよ。 だってオーストラリアの自然は凄いもの。 当時の写真を見る限り「日本国土規模の富士の樹海のような場所に俺が一人ぽつんといる」って感じだよ。 私のオフィス、エアコン付きだし、私、もっと頑張れるって思いました。

番組ではこれらの情報をヨーロッパからの貨物船の記録とか、昔の市役所の記録とか、郷土史を研究している人達とかの協力を通じて発見していく。 私はここに凄く感心してしまった。 どれだけ記録マニアなんだ人類、というかヨーロッパの人達。 googleの遺伝子を感じてしまった。 200年近く前の貨物船の記録って、おい!

母方だったか、それとも父方の誰かだったかは思い出せないんだけど、彼にはアイルランド系の血も入っている。

スイス系の祖先達が来た頃と同じ頃、彼のアイルランド側の祖先は、妻を殴り殺し、オーストラリアに島流しにあう。

オーストラリアに流された人達は、イギリス本土の人工口減らし目的だったので、軽犯罪者達をじゃんじゃん流刑したんだそう。 パンを盗んで地球の裏側の未開の地へ島流しっていう「おいっ!」っていう時代だったのだ。

その中で殺人者が送られたのは非常に、非常にレアなんだそう。 殺人者が死刑に会わなかった事自体がレアなので。

どうしてそうなったのか。 理由は、殺人現場を目撃していた彼の子どもたち(当時十歳ぐらい)にある。 裁判の途中で、子どもたちは父親が母親を殺した事を証言している。(ここもすごい) 父親が母親を殺したのだと証言し、その現場の説明をし、そしてその結果、法がその父親を処刑した場合、この子どもたちは「自分達が罰されている。 自分の証言が父親を殺した。」と思う事になる。 それはいかんと言う事で島流しになったらしい。(この時点で私あっけにとられた。人に歴史あり。壮絶なり。)

これらの情報を当時の新聞や裁判記録を読み解き探し出していく。(実はこの殺人を犯した父親と、息子は名前が一緒であり、当初は同一人物だと思われていた。 でもそうすると色々と符合があわないと分かり、調べていくにつれ、別人である事、そして父親の方がオーストラリアに来た原因の人物であることが分かっていく)

かなりファインなラインで、自分の御先祖様の命は繋がり、現在の自分の命に繋がっているのだと知った、Ronおじいちゃんマジであんぐり。 驚きまくっていた。 そもそも自分にアイリッシュの血が入っている事すら知らなかったのだ。

anyway, その島流しにあった父親、当初は勿論一人で島流しにあった。 しかしRonおじいちゃんはオージーに現にいる。 どういういきさつで子どもたちはオーストラリアに来る事になったのか。 殺人事件がおこった当時、10歳を筆頭に6人の子どもが彼にはいた。 彼はオーストラリアでの生活がある程度軌道にのりはじめた時点で、地球の裏側にいるその子どもたちを必死に、(ものすごい努力が必要とされたのだろうってことは簡単に想像がつく)呼び寄せる。

貨物船やら裁判記録やらでは分からない側面は、果たして、子どもたちと父親はまた親しくなれたのか/打ち解ける事が出来たのかという事だ。 感情的な所は分からない。

番組は今度は彼らの居住記録に注目する。 なんと父親と、父親の殺人を裁判で証言した(事件があった当時は10歳)だった息子は、後年シドニーで同じ家に住んでいた事が分かる。 今度はその家のサイズや間取りを探していく。 そしてその家は現在のロックという地域にある、二間の小さな家だと分かり、「嫌い合っていたらこのサイズの家に一緒に住む事は出来ない。 職業記録などを見ていても、彼らは一緒に住みたくなかったら住まずにいられたような収入があるし、打ち解けたのだろう」という推測にたどり着いていく。

もうRonおじいちゃん、言葉を失っていたよ。

気持ちは分かる! 私も結構色んなレイヤーで言葉を失った。

人びとの人生も凄いし、ヨーロッパ人達の記録+アーカイブマニアっぷりもすごいし、当時の法制度やらもすごいし、移動距離も凄い。

あっけにとられた。

で、この規模の話しがみんなにあるんだよね。 それが番組を見ていると分かるんだ。 人類の命の繋がりって、すごい。

ミクロネシア出身の人なんて、自分の御先祖様の歌声を、ケンブリッジ大学の文化人類学研究所経由でロンドンのナショナルアーカイブの鑞で出来たレコードの中から見つけて、おったまげていた。 この人の回も凄かった。

とりあえず面白い。
人類凄い。
そしてヨーロッパ系の人達の記録マニアっぷりも本当に凄い。

もし私に子供が産まれたとして、そしてその子供に子供がうまれたとして…って考えてみる。
その子(私の孫)は、祖父母四人、両親二人の人生やら命の連鎖やらの結果であるわけだ。
過去を振り返れば、半端無い数の人達の命がある。

自分の命と今地球上に生きている、
想像もできないどっかの誰かの命の連鎖が繋がって、
新しい命になっていく訳じゃん。

自分の孫なんて、半分以上、私の命の連鎖以外で成り立っている。

自分の命が見ず知らずの誰かの命と遠い未来で繋がる可能性があるのかぁと考えると、
なんかえらく感心してしまうよ。

「自分の孫」なんて考えると、なんか自分の命からの連鎖って感じにしか見えないけど、
実は私の命が他の人達の命と繋がりあって、どの人の人生の背景にもダバダバダバダーって色んな歴史や背景があるのだと考えると、世の中の一筋縄ではいかない感じが実感できて面白い。 なんか変なきっかけだけど、社会性が若干自分の中で芽生えたよ。


おまけ
アメリカ版だとサラジェシカパーカーとかが素材になっていて、彼女の御先祖様が魔女刈りで殺されていた事とかが分かったそう。 アメリカ版も凄そうだな…。

2010-11-20

The man in the hat

The man in the hatという映画を見た。





Wellingtonのアートディーラー、Peter McLeaveyに関するドキュメンタリー映画。
想像以上に素晴らしい映画で、終止心が揺さぶられた。

彼は私の大学のすぐそばで、40年以上ギャラリーを経営しているアートディーラーだ。 NZで最初に現代美術を取り扱いはじめたギャラリーで、NZの現代美術史は彼の狭い、しかし美しいギャラリーの壁の上で綴られ続けてきた。

彼は私の尊敬する、そして私の心の深く、そして一番求めている部分に触れてくる作家達を、沢山見つけ出してきた。
そんな奇跡みたいな仕事がどうして可能だったのか、映画を見ていて、理解できた気がした。

そして私が彼のギャラリーに行く度に感じた事を、映画も見事に描き出していた。 彼の見つけてきた作品の素晴らしさ、ギャラリーの功績、そしてなによりも彼の人となりの素晴らしさについて。

初めて私が彼のギャラリーに行った時、入り口で握手をされ「君がここに来る事を42年間待っていました」と言われた。 それから沢山の話しをした。 そこで展示される作品がとても好きだった。 私の知らない世界をいつも見せてくれた。 私だけでは開けられなかった、自分の中の、世界と触れ合う為の感受性の扉を沢山開けてもらった。

同時にピーターのあまりにも優しく、まっすぐで、力強い彼の言葉に私は励まされ続けてきた。
彼は言葉の人だ。
彼の言葉との関係により、私は改めて言葉の持つ、自分と世界を繫げてくれる力を知りなおした気がする。
的確に自分の感じている事を伝えよう、表現しようとする、人としての向上心を、彼から感じたんだ。
嘘が無くて、明確で、そして何よりも言っている事の内容が良い。
しっかしとした言葉の骨格と、綺麗な単語達を効果的に混ぜて、言うべき事を言っている。
それって凄いことだよ。 とても難しい。

大抵ワーディーな文章や、やけに形容詞連発して当人の感受した事柄に付いての話しは退屈で、残念な感じがする場合が多い。 脳みそだけが空廻ってしまった感じがして、そのアンバランスさがめんどくさくて苦手なのだ。 自由な魂を持っていて様々な事を感じる為の扉が開いているのと、神経質なのやら未熟なのってって全く別の話しじゃん。





私をピーターのギャラリーに連れて行ってくれたのは、ウェリントンで当時同居していた男の子だった。

私は大抵、一緒にいるその時には、その子から与えてもらった事柄の量に全く気がつけていない。

同居人とかになると距離が近くてなんでも見えてしまう分、大抵若干相手との関係をめんどくさいと思っていたり、相手を大した奴じゃ無いと思ってしまったりする。

でも、後から考え直してみると、本当に信じられないぐらい沢山の事を、一緒に住んだ相手からは学んでいる。

彼から教えてもらった事や気がつかせてもらった事に、いまだにかなり影響されていて、そして素晴らしいと思っている自分に、自分で驚く。 その時はそこまで価値を見出していなかったから。

絶対にかなりの生活の知恵と喜びを彼らから得た。 不思議なもんだ。 友達として気が合うとか、そういう次元以外でも人間関係って尊い果実を実らせる事ができるんだよね。

だから彼の事を懐かしく思い出しながら、映画を見ていた。

そして自分が価値を見出せていなかったり、尊さが分かっていない事柄が、
未来から見てみたら、今日の生活の中にも溢れているんだろうと思えて、救いを感じた。





それにしても映画の中に出てくるウェリントンが、私の見ていたウェリントンにとても似ていて、本当に懐かしくて胸が温かくなった。 「これこれこれ! これが私を育ててくれて、そして私の愛してやまないウェリントン!」ってなりました。 自分の中の大切な景色が、このドキュメンタリー映画にも沢山記録されていた。 目線が似ていた。


ウェリントニアンは普通に国会議事堂の敷地内を通って通勤する。 誰でも入れる。 敷居がめちゃくちゃ低い。 というか、ほとんどない。 映画の中にもその景色が出ていた。 よそではちょっと考えられないよね。 近道だから国会議事堂の敷地内を横切って行こうぜとはならないだろう。 

これはアティチュードの問題なんだと思う。 「国会議事堂は開かれた公園のような場所であるべきだ。」っていう人びとのアティチュードが、色んなルールを作り上げて行くんだよね。 ウェリントニアンのアティテュードが映画の中に偶然色々写っていて懐かしかった。

他の街に住んでみて、ウェリントンが結構特種なコンディションの上で、ああいう感じなんだなってのも知って、どこもかしこもウェリントンのようになれば良いとは思わなくなったけど、それでもやっぱり好きだな。

2010-11-12

引っ越し つながり直す

久しぶりに引っ越しをした。 久しぶりって言っても、今年4回目の引っ越し。 一体どういうタイムスパンを久しぶりとよぶのか…、個人の感覚が問われますね。

今回の家は90年代初期に倉庫から住居用に改築された、都心のマンション。 街のど真ん中なんだけど、横が大学の大きな大きな公園で、窓からは植物しか見えない。 部屋にいる時は茂りに茂った植物を窓から眺めている。 マンションを出ると、都会。 とても良いコントラスト。

私は多摩美に通っていた間、自分がNZに住んでいた事があった事すら忘れていた。 当時の東京にはイギリスの学校の同窓生や彼らの友達なんかが沢山いたから、自分がイギリスに住んでいた事による縁が日常に溢れていた。 だから、イギリスにいた事の実感はあったんだけど、ウェリントンの事は生活に全く関係なかった。

東京を去り、ウェリントンの大学に戻った始めの頃、東京での自分にはあまり登場しなかった、自分のクオリティーがぐんぐん戻ってくるのを感じた。 特に、高校のときからの友達と遊んでいる時や、街を散歩している時に。 ウェリントンを歩きながら「ああ、私は確実にここで育ったんだ。忘れていたけど、ここで私は長い時間を過ごしていた!」と感慨を受け続けた。 自分の中の東京の生活では使われていなかった感受性のチャンネルが、また外界と繋がり直すのを感じた。 それはとても素晴らしい感覚だった。

今回、引っ越したマンションで私はまた似たような感覚に襲われた。 多分、建築様式や空間の質が実家と似ているからだろう。 実家にいる時の自分の感覚がぐんぐんと戻って来たのだ。 鎌倉の親元での自分と、オークランドにいる自分が重なりあった感じがした。

そして今回は家中、私の空間。 始めてフラットメイト無しの生活。 台所の感じ、お風呂場、化粧台、本棚、全てに私の物だけが溢れている。

荷物を適切な場所に配置した瞬間に、「あらら、こりゃ実家のミニチュア版だ!」とぶったまげた。 元々似ている建築に、自分の持ち物だけを並べましたら、簡易版実家になりました!

ぶったまげたよ。 12歳から、26歳までの間ずーーーーーーーっと、大勢の他人と住んでいたからさ。 こんなにはっきりと他人のスペースと境界線が引かれた、自分だけのプライベートな空間を持った事が無かったんだ。 で、そのクリアな線の内側を始めてはっきりと見たら、そこには見事なミニチュア版の実家があった!

こんなに自分が家を引きずるなら、あがなっても無駄だなと思いましたよ。 しょうがない。 私は一生自分が育った家を「家ってのはこういうもんだ」と無意識で思って、似たような空間を世界中のどこにでも作ってしまうんだろうし、きっと子供にもそういう強烈な刷り込みをするし、私の孫だってきっとそう。 将来自分の孫の家を見て、きっと私は私の親を思い出して泣くだろう。 そういうもんなんだなと思いました。 空気の感じ、布の感じ、明かりの感じ。 「ここちよさ」のディフォルトがはっきりと形づけられてしまっている。

物に関して言うとね、お風呂場に溢れる親と同じ香水たち、同じメーカーのボディーケア用品、化粧台に散らばる親から貰ったアクセサリー、台所にある廉価版の実家の台所道具、寝室の本の感じ、クローゼットの服、作業部屋のMac。 考えてみたら、私はなんでも親と同じメーカーの物を使っている、とことん親離れできていない人間なのだ。 そしてそれらの雑多な置かれ方。 まさに実家と一緒。 プチ日本。 日本製の物はそんなに無いのに、明らかに日本人の家。 すっごいよ、この刷り込み。

「変われないのかもしれない」と強く思った発見でした。 これは小さな絶望だね! そして同時に若干の喜びでもあるよ。 ああ、あたし、きっとそんなに変われない。

2010-11-07

ガイフォークス

大学時代の友達の家に泊まっている。

彼の家のフラットメイトが誰もいなくなる週末なので、一晩ぐらいひたすら居間を占拠してDVDやらテレビやらを見て、ソファーでゴロゴロしたりしようやってことになったのだ。

ってことで、二人で夕飯ぐらいの時間から、ひたすら居間でゴロゴロしている。

彼の家はソファーが二つあるので二人で向かい合う形でねっころがっている。
お互いソファーと一体化しているので、お互いに飲み物を渡し合うときも、お互いに腕を延ばせるだけ延ばして、「うぎぎぎぎ」ってなりながら渡している。 ファイト一発オロナミンCのCMに出てくる状況並みに「うぎぎぎぎ!」ってなっている。

二人して完全に不細工。
物によっていかに行動がコントロールされていくかの良い例ですね。

家にテレビとソファーは置いちゃいかん!!
時間を吸い取られるぞ!!
せめて「友達の家にある」って距離感がちょうどいい。



さて今日はガイフォークスのお祭りの日です。


NZでは花火の販売と個人使用が11月2日から5日までの三日間と決まっている。 未遂で終わった火薬陰謀事件を花火を使って代わりに達成してあげる(?)ようす。

ものすごい勢いで花火がバンスカあがる数日間。

しかし規制しても危険性を報道しても、毎年一件ぐらい家が全焼しているらしい。
なので職場でも同僚たちが「全部規制するべきだ」と言っているのを聞く。

規制もされていないし、そんなに家が花火で全焼したとも聞かない国からきた私には信じられない光景。 どれだけ野蛮なんだニュージーランド人。

本当に花火に罪はないですよね。
使い方に問題があるのです。
規制するから、興奮して数日間の間にバンスカ気が狂ったみたいに国民一斉に花火をあげるような暴挙に出てしまうのです。

ということはどこかにテレビとソファーと家で優雅な関係を築いている人がいたりするのでしょうか。 だとしたら是非教えてもらいたい。

そんなことを悶々と考えている、ガイフォークスの夜。

ソファー

 大学時代の友達の家に泊まっている。
彼の家のフラットメイトが誰もいなくなる週末なので、一晩ぐらいひたすら居間でDVDを見たり、ソファーでゴロゴロしたり、

2010-10-26

久々に日本

急な用事があって3日間日本に帰ってきた。
日本に帰れると知った日から、ものすごーーーく楽しみだった。
そして帰ってきてみたらも、ものすごーーーく楽しかった。

赤ちゃんに会ったり、古い友達と遊んだり、とても素敵な週末になった。
こういう週末にぽろっと旅行に行くって好きだ。

久しぶりな友人に会うと、「あんなはこれからどこに住むの? 日本には帰ってくるの?」と聞かれることが多い。 自分でもわからないことだから、「わかんない」としか答えられない。

理想を考えるときりがない。 例えばどんな国からも、簡単に就労ビザがおりるぐらいの実力を持てたらどれだけ素敵だろう。 何カ国か住めたら、そこで仕事ができたら、それは本当に素敵な幸運だよなと思う。 でもそのためにはものすごい能力と技術と行動力がいる。 それは今の私は持ち合わせていない。

また30すぎぐらいには自分の会社を持ちたいなと考えている。 何の会社なのか、どんな商売をするのか、そうやるのか、そういうのを見定めるために20代は使いたい。 そのためには、後何カ所かで働いて、いろんな産業下で就労経験を積みたい。

どう考えても今は修行のとき。 まさにジュニアデザイナー。

もう26歳なので、考えてみるとジュニアで修行ができるのは後数年しかない。 そして何となく今のところはこのジュニアの時期は日本に帰らないだろうと思っている。 

日本で働くのはとても忙しそう。 簡単に数年すぎてしまうだろう。 また日本での就労体験が他の地域でも使えるものかと考えると、特にそうでもないような気がするんだよね。 それに将来自分が日本の中の市場に向けて仕事をしたいとは今のところ思ってないので、大陸圏で若いうちに一度働いてみたい。 

そういうことを考えると、特に今すぐ戻ってきて、日本で働こうっていう気分にはならない。

でも勿論家庭の喜びも人生の非常に大きな側面だし、それが日本にいた方が得られると思ったら、日本に住むことには躊躇ない。 私は家族の為に、生活のために働きたい。 仕事を優先して、家庭の喜びとか、友人達との慈しみ合いとかを失うのは本末転倒じゃん。





夜、友人達と銀座のビストロでコーヒーを飲んでいた。 大好きな瑞穂と大山と。 彼らの顔を見ると幸せになる。 

その日はとてもいい一日だった。 もう一組の友達夫婦の間に生まれた赤ちゃんにみんなで会いにいき、その後はとても素敵なバーでかっこいい男友達とお酒を飲んだ。 そして、落ち着くお店で帰り際にコーヒーを飲んだ。

すごく幸せだと思う、と言ったら、大山が結構本気でうなずいていた。 私が幸せであってほしいと思っている人たちは、みんな恵みの多い幸せな人生をおくれている。 私は、結構涙が出そうなぐらいに、自分に訪れている幸運と恵みを噛み締めていた。 これ以上ってないよ!

定住地がなくても、まだ形になっている物事が手に入っていなくても、味わいや優しさや、恵みが日々にあふれている。 とても幸運だ。

まとまりのない文章になってしまったけど、「これからどこに住むのか」とかって、結構この幸運な感じを心の明かりにして、決めていくことだと思う。 私にとって、ここが一番明るくて、そして暖かいと思える場所にいつかは住みたい。

そんなことを、思っています。

あー、それにしても日本楽しい! 観光でくるにはベストな場所だね。
観光ツアーとかデザインしようかな。 誰か私と一緒に東京観光ツアー、デザインしませんか? 中国とかの若い、プライド高くて、センスがいい人たちを相手に、東京でのグランドなツアー、デザインしたら絶対楽しいよね。

2010-10-07

主夫

私の友達は研究者やデザイナー、建築家など
結構家で仕事ができる人が多い。

結果的に大学をでた今、私の友達はやたらと主夫になっている。

完全なる専業主夫はいないけど、
大抵家で一日に数時間ずつ働いて後は家事をしている。

何故こんなに最近回りの友達は主夫なのか、
悶々と考えてみた。

元々私の父が専業主夫だった。
今では専業ではないが、それでも家事のリーダーシップを取っている。
なので、そういう生活が好きな人とは感覚があう。
多分それが因果の一つ。

そして私は男子校のような環境にずっといたので、
圧倒的に男の子の友達が多い。(残念な位に周りに女の子がいなかった。)
私自身は別にマッチョな男子じゃないので必然的に中性的な男の子と友達になる事が多かった。 多分これも因果の一つ。

また私は、作りが雑なので、かなりのハイメンテナンスが求められる。
インド車のアンバサダーが人間になったらこういう感じだろうという作りだ。
必然的に私は甲斐甲斐しい人と友達になる事が多い。
結果人種性別年齢問わず、私の友達は菩薩系の方々が揃う。
友達勢揃いの時なんて、ほとんど涅槃。 菩薩勢揃いで曼荼羅状態。
彼らが立身出世とかよりも家庭を選ぶのは大変理解できる。
なんか、そういう方向に頭が向いていないのだ。
菩薩だから。

こっちは大学院に行く前に結婚するケースが結構ある。
片方が働き、もう学生をする方を経済的に支える為だ。

私の友達は、カップルで大体一年ずつ交互に学生と労働を繰り返している。
学生側の貰う奨学金と、労働者側のお給料で二人の生活を成り立たせている。
そして家で論文を書いている側が大概の家事をする。
そんな生活を考えてみたらここ4年位交代しながら彼らはしている。

他にも片っぽが外部の建築事務所で働き、もう片っぽは家でその事務所のサポートをしながら家事をしているとか、まあ色々ある。

勿論不景気も手伝っている。 元々そんなに外でビジネスマンになるようなタイプの人達じゃなかったから、「ガッツリ働くより、家庭を守ろう」って方向に行くんだろう。

まあ皆素晴らしい伴侶がいて、家庭があるから、そこでオーケーならいいんじゃんと思って眺めていた。(家庭願望がある奴らが多かったみたいで、友達みんな今伴侶持ち)

で、実際自分も働きはじめて、私の連れ合いも働いていてって生活をしてみて、どっちかが仕事をカットダウンする事の意味がはじめてわかった。 両方ともフルタイムで働いていると、家に帰った後に家事をするだけで時間が取られて、なんか"生活"が無くなるのだ!


2010-09-08

クライストチャーチ

土曜の昼間、日本の父親から電話が来た。 こちら時間の早朝、NZの南島のクライストチャーチで大きな地震があった事を、日本のニュースで知り心配して電話をかけて来てくれた。 

その日はたまたま家のネットが切れていた事と、早朝から用事で街を出ていた事が重なって、私はニュースを全く見ていなかった。 驚いてコンビニに飛び込み新聞を見たけど、地震は新聞を刷り終わった頃におこったため、載っていなかった。

そして銀行に入り、待合室のテレビでニュースを見る。 

心配だ。

春が来る

2010-08-23

鉄平

多摩美にいた頃、鉄平見たさにMTV見まくっていた。

YUKIちゃんの物まねをする鉄平、幼少期に家族の食卓で「お母さんはお父さんのチンコくわえるの?」と聞いたんだよねけろっと言う鉄平、ささやき戦術で「恋に臆病になっているんだよね」とほざいた鉄平。 全てが笑えた。 そして「こうありたいものよ」と思ったもんだ。

そんな鉄平が癌になった。 自分のラジオ番組とブログで、癌になった事を発表した鉄平。 なんて潔くて正直なんだ。 そんな所まで鉄平らしい…。

若いのに癌。 癌って、身近な病なんだなぁ…。

鉄平、鉄平、鉄平。

頑張れよ鉄平。
元気玉鉄平に送るぞー。 鉄平! 今日本中のMTVっ子が元気玉送ってるぞーーー!! 鉄平ーー!

2010-08-22

夢の病院を作ろう


 時々ここで買物をする。

 会社に入って初めて、世の中の多くの人がなんだかの形で定期的に、そして積極的に募金や寄付をしていると知った。 学生は寄付されて暮しているようなものなので、全く知らなかった。

 稼ぎ始めると、周りの人達とお金の話しをする事が増える。 全体の何パーセントを貯金に回しているかとか、どれぐらいを短期間で消費する目的のお金として取り扱っているかとか…、そして何パーセントを寄付に回しているかってのも出てくる。 人によってはどれぐらいを祖国にいる家族/親戚に仕送りするかってのも含まれてくる。

 一部のキリスト教教会に属している人達は、義務として収入の10%を教会に寄付する。 ポリネシア系の人達の行く教会にそれが多く、彼らは当然の事として収入を寄付して行く。

 そしてたまにそれは職場で、ディスカッションの対象になる。 何故お金なのか。 人に捧げる事が出来る自分のプロパティーは、時間であったり、思いやりであったり、一緒に考えてあげる事であったり、代わりにやってあげる事であったりもする。 お金でなくても良い訳だ。 無批判にお金を誰かに渡すってのが、結果としていい事に繋がる訳じゃないってのは、これまでのエイドなどでの結果で誰しもが知っている。

 祖国の人びとに仕送りをしている同僚は、親族に「お前馬鹿じゃないの?!」っていうお金の使われ方をしているのを知り心を痛めている。(親に何年も仕送りしてもらい、「お前本当に馬鹿だろ?!」ってお金の使い方をしてきていた私としては耳がマジで痛い話しだ。)

 そんなことをたまに話す。

 大概の同僚や上司達は、無宗教でもキリスト教的素養が強いからだろう、10%ぐらいの収入を自動的に寄付や募金に回している。 貧困状態にある片親家庭へのスポンサーになっていたり、海外の子供の里親をしていたり、やり方は様々。 意見も色々ある。 

 「NZは政府の福祉がある程度ある訳だから、スポンサーする必要はない。 それよりも、政府の福祉が機能していない地域の子供にお金を渡すべきだ」「いやいや、それは理想論。 政府の福祉じゃ足りないし、貧困問題は結局の所は自分の地域社会を荒ませてしまうのだから、自分の地元の子供の成長の為にお金を渡すべきだ」などなど。

 お金だけじゃなくて、時間を捧げている人達も多い。 週末に片親家庭の子供を預かる(例えば母と息子だけの家庭の場合は、子育てが終わった男の人が週末に息子を預かって一緒に遊ぶなど)事をしている人達も多い。

 理想はまんべんなく人びとのケアが行き渡る事だろうから、多様性はいい事だ。 人と違う事をする事が大切な領域の一つだと思う。 面白いなあと思いながら眺めている。

 で、私の場合は何となく自分がコンスタントに続けられて、自分にとっての大切な人達の為になるサービスは何なんだろうと思って探した結果、「夢の病院を作ろうプロジェクト」を選んだ。 まず何となく、日本の子供に寄付がしたかった。 別に身内に癌の子供がいる訳でもないのだけど、コンセプトを読んでいたり、買える物を読んでいるうちに「これは必要なんだな」と思えたから。 読んでいるうちに、必要性に納得させられたってのがここを選んだ大きな理由だな。 これが良い選択理由になっているのかは分からないんだけど「デザインがきちんとしているから」ってのも理由のうちには含まれる。 工業デザインという活動のうちの大きな動機の一つを、このプロジェクトを見ていると思い出させてくれる。

 貧困層や、片親家庭、同年代の障害がある人達…、自分の収入の一部をこういった人達に届けたいと思う相手は沢山いる。 「自分がこの立場になったら助けが必要になる」と思う人達は沢山いる。 その中でなんで癌病棟なの?なんで子供用なの?と聞かれるとズバっとは答えられないんだけど、(優先順位を決めるのはとても難しい)とりあえず今はここ。

 買物をするのが好きな人は、是非ここで買物をしてもらいたい。 寄付っていうと抵抗があっても、買物はみんな好きでしょ? 私は、「プラスチックじゃない容器」をよく買います。

2010-08-21

むっふん

以前シドニーで奇妙な彫刻を複数見た。

街のど真ん中に誇らしげにあった噴水。
全体像はこんな感じ…。




私はこの彫刻は変だと思う。





鼻の穴から水出てるし…。

しかも白人男性(マッチョ)が獣を征服する像って、街の真ん中にあっちゃぁいけないんじゃないかと、見ていてかなり不愉快になった。
「野蛮なのはどっちかって言うとお前だ!」と彫刻の男に向かって喧嘩を売りたくなる。







腰のしなりかたとか、ホモエロティック。




股間を凝視。
混乱させられる。




所変わればだなぁ…。







新しい若者向けのショッピングモールにも雄牛がいた。
でかい玉をぶら下げて。

私はあまりこういうマッチョ彫刻に縁がない地域で育ったので、
町中にこういうムキムキで権威的で、
無駄にリアリスティックな彫刻に溢れたシドニーは強烈だった。

地元の人達からしてみたら誇りなのだろうか。
カルチャーショック。

2010-08-08

さよならG9

 数年間愛用していたCanon powershot G9がついにお陀仏した。

酷使し過ぎていたようで、どうもガタピシャ来ている感じはあった。 そしてある日動くのをやめた。

 高校で写真の授業を取っていたわりには(NZの高校では"幾何" "物理" "統計" "音楽"ってのと同じ割合で"写真"っていう授業がある。)カメラに疎い私。

 当時は勿論フィルムでありましたし、ベージックな働きは一応学びましたし理解はしているんですが、こう、情熱的なオタク達の言説にはついていけない…、ってのが実情です。

 カメラは本当に奥が深い…! 「写真に特化したい」となったら、金銭的にも技術的にも情報的にも本当に人生を捧げなくちゃいけないですよね。

 実は今、写真と製本に関する産業に携わっているので、とても優れた写真家の方々や、特化した印刷技術に関わらせていただいております。 一日にそれこそ何百枚も写真を見ているのですが、余計に「これは…、プロの人に巨大な尊敬を捧げて、私はサポートに徹しよう!」という思いを強くする一方です。 写真は、本当に、一つの宇宙。

 ただ仕事上、ドキュメンテーションっていう側面で一日に何回もカメラを使って写真を撮影しています。 そして私生活でもよく写真を撮ります。 カジュアルな行為としてはとてもとても好きなのです。 ほぼ唯一の趣味であります。

 なのでカメラが無いのは非常にきつい。

 今日はカメラ小僧の友人と一日カメラの買い出しに行ってきました。

 何でもかんでもイメージで決める私の友人は、それはそれは頼もしかった。

 一瞬デジタル一眼レフに自分のカメラをグレードアップさせようかと迷った私に、「杏奈が一眼レフを担いでいる姿は想像がつかない。 似合わない。 かっこわるい。 色っぽくない。 君向けじゃない。」と、ずばっと独断され、一気に選択の幅を狭めてもらいました。

 確かに私の日常的な使い方を考えると、一眼レフは向いていない。

 ってことで、コンパクトカメラのハイエンド機種を検証。

値段のパフォーマンスがいい事から、Canon S90に一瞬心が傾いたが、写真撮影ってやっぱりなんだかんだでマニュアル操作が楽しいんだから、簡単操作系を買っちゃうと、結局使わずにもうちょっと操作できる機種を買い直してしまいそう。  って事で却下。 

ケチな心が出てきて「いや、これも一種の"質素遊び"って位置づけにして安いカメラで手を打つんだ私!」と一時間ぐらい自分を説得したんだけど、失敗。

それで一応G11を候補にあげて、試し撮影をさせてもらう。 頼もしい。 実に優秀。 しかも結構美しい。(デザイン的にはG9がなんだかんだで一番完成に近かった気がするんだけど、それでもG11も他の機種と比べるとずば抜けて美しい)

ただ、心の中にはずっと欲しいと思っていたカメラもあったのだ。 これを口に出したら、欲望に耐えられなくなって買っちゃうと思って、躊躇していたマル秘カメラが。

「がっちゃんこ」と物がはまる感じが好きでたまらないから、工業デザイナーになったと言っても過言でない「がっちゃんこ」好きな私の心をロックオンしてたまらないビューティフルで、ソリッドなワンダーカメラ。 それは…、RICOHのGXR。 発売された時から欲しくてたまらなかった。 

ただNZではニッチすぎるカメラとして非常に値段が高かった+日本にこの間帰った時は円高過ぎて買えなかったので、欲望は強固に封印されていた。

このカメラは工業デザイナーだけに向けて発売されたんじゃないかってぐらいに、私の心をくすぐった。

まず、四角い。

素材の持つ美を最大に引き出しているマット加工。(素材の祝福は工業デザインへの祝福である)

モダニズムの申し子のような黒。

近代工業のシグネチャー的動き、がっちゃんこ。

近代工業の礎的コンセプト"ユニット"を仕様。

コンパクトカメラ以上、デジタル一眼レフ以下の、そのたまらない立ち位置。(デザイナーは全ての職業の中間位置に立つのが仕事なので、このカメラには感情移入できる。)

「既存のカメラからの大冒険をしましたな!」っていう、ラディカルなゲシュタルトの変化。

結果として非常に美しい。

要するに、たまらない。

そしてラディカルすぎるので、常に廃盤崖っぷち感があり、思わすその実験性を評価しサポートする為だけにも商品を購入したいという、RICOHのエンジニア+デザイナーさんたちへの仲間意識。

本当に欲しかったんだ。

持っちゃいけない、もったら買っちゃうと思いつつも、思わず触ってしまった。

そして友人にその立ち姿を絶賛される。 「このカメラ、アンナ似合い過ぎ。」と工業デザイナー同士でしか評価ができないような基準で、似合うか似合わないかを審査してもらった。


2010-08-06

ベビ蔵

 朝から歩んちのベビ蔵(はやて君、生後三週間位)の写真を、連れ合いと二人で、穴があく位まで眺めるのが日課になっている。

 ベビ蔵、局地的に超ポピュラー。 「ベビ蔵、今日元気そうだ。」とか、「今日のベビ蔵の泣き顔はいぶし銀的に渋いね。」とか言いあってから出勤。

 はぁ…、大ファン、友達んちの赤ちゃん。

 欲を言いますと、「ベビ蔵とパパ」とか「ベビ蔵と歩」とか、「ベビ蔵一家」とかそういう、ファン心的にはもっとプレミアな喜びを与えてくれる写真を求めております。 ファンだから。

2010-08-02

風邪 色褪せていく

 七月は用事が連なり、毎週末飛行機で旅行に出かけた。
 結果として最後の週は、半分ゾンビ状態になった。

 勝手に自分は体力がある方なのだと信じ込んでいたのだけど、決してそうでもないと知った七月だった。

 弱って行くにつれてだんだんと、夜らへんとか自分の心の色彩が褪せて行ったのを感じた。

 こういう時は頭の中で勝手に自分の身の上におこっている事を、フォトショップ的に認識し始める。

 「ああ、レイヤーが複製されて、上に置いた方のレイヤーがイメージアジャスメントされて、色調と、彩度が、両方とも-100にされた…。 そして、上のイメージ全体の透明度が60で、退色加工終了…。ここで透明度がゼロになったら、ああ…、その時は世界はモノクロ!!」ってさ…。 

 写真で説明すると、下の写真が夜らへんに普通の疲れた時の状態。 疲れているけど、どっかは気持ちがいいし、まあ、普通に日が暮れて行く感じを体感する。 






で、これが疲れた上に、風邪をひいた時の心的風景。(この写真は上の写真にフォトショップで退色加工をしたもの。) 多分、言語感覚がもっと発達した人は、ストレートに「うつうつとしている」とすぱっと言い切れるんだろうと思う。 私はそう言い切る前に、ずっと「フォトショップでならこんな感じ…」と変な分析をしてしまう。 職業病だと思う。


 


とにもかくにも、今週末の私は滞在先のウェリントンで風邪引いて大変暗かった。

友人の送別会に参加している間も、輝くような美男子の友人らとお洒落なカフェでアフターヌーンティーをしている時も、めためたに私の心の中は暗かった。

滞在先で夜、熱を出しながら、うつらううらと、陰惨な事柄に胸を馳せていた。 「海外に引っ越して行く友人を見て、私もそうしたいと思うけど…、もし引っ越し先でこういう心の色調になっちゃったら、多分私耐えられない…。」とか「ああ、もうきっとお先って真っ暗なんだわ…。」とか、「今まで私はなんて呑気に物事を考えていたんだろう。物事がそんなに簡単で心にやさしいわけないのに。 きっとズタボロに傷つけられて、ルサンチマンいっぱいの状態で朽ち果てるんだわ…。」とか、出てくる出てくる、暗い発想。

風邪と疲労、恐るべし。 疲労の恐ろしさを痛感した。


多分新しいところに引っ越したら、こういう心理状況にはなりやすいだろう。 そうなった人を結構知っているし、今回旅行しまくって疲れた結果、自分自身も陥った。

でも結局は移動の多い、色んなところに行くライフスタイルを自分は求めている。 ってことはある種のコーピングメカニズム(対処方法)を見つけ出さないと、自分で自分の首を絞める事になる。

それで悶々と考えた結果、「疲労を貯めない/疲労回復を上手にする」ってのが一番良いコーピングの方法なのではないかと考えがまとまった。

今回は「回復をする為の体力が無い」っていう変なスパイラルに自分が入った気がした。 それこそ、「寝ても寝た気がしない」ってのから始まってさ。 そして気がついたら、結構悪い状況に自分自身を立たせた。

もうこういうのは嫌だ。

疲労回復がすんなりと行える程度への体力は、最低限必要だ。
体力向上させるぞーー!

2010-07-30

シドニーの電車

公共の物を壊したり、汚したりしたいっていう衝動が私にはない。 多分、多くの日本の人達にも無いと思う。 だから日本は街も電車もいつも大概綺麗だ。

アジア圏以外の街に行って、いつも不思議でしょうがないのが、街や公共の物に対する暴力行為だ。 どうして落書きをするのかが分からない。 どうして物を壊すのかが分からない。

誰がどういうメンタリティーでやっているのかが、本当に分からないのだ。 そのアグレッションが本当に理解できない。












電車の中で禁止とされている事も、なんでそれをわざわざ言わなくちゃいけないのかが分からない。




掃除になっていない掃除も分からない。 やるならちゃんとやれよ。

こればっかりは全く理解できない。

現実のシドニー そしてテレビから演歌




オーストラリアの国章はカンガルーとエミュー。 こういうのを見ると路上にきゃつらがゴロゴロいるのかとワクワクするよね。 「やあ!」ってカンガルーに言われたらどうしよう♥と、一人ときめく。

ちなみに下のがニュージーランドの国章。 こっちは何故か人。 いつも右上のぐったりした羊が気になる。 死骸…、なのか?






本家であるイギリスの国章はこんなん。 ワキャーーーっ!ってしてますね。 イギリスはキンキラキンの空想の獣達で装備されています。







一番上のライオンの顔面表情とか、もう、どうしちゃったの…?って感じよね。 ユニコーン、鎖で繋がれてるし。 鎖無かったら、イギリスから走って去って行くのかい、ユニコーン?

さてイミグレを通過して、オーストラリアに入国してみたら、まず人が沢山いて驚いた。 シドニーの人口はニュージーランドの総人口と一緒なので、ニュージーランドの感覚で人の群れを見ると、確かに人が多い。 それは想像済み。 でも日本の感覚での人の多さとは違うだろうと覆っていたんだけど、結構日本的に混んでいて驚いた。 シドニー空港の込み具合はヒースロー以下だけど成田並。 

ここで「オーストラリアでは90年代まで神奈川県と同じサイズの牧場を二人の男が管理していたぐらいに土地がある」って情報からもたらされていた偏見が、シドニーでは通用しないと知る。






旅行先に付いたらまずお金をおろしますよね。 ANZは、オーストラリアニュージーランド銀行。 銀行は一緒でした。 自分の銀行を使ってお金を下し(ただATM機はオージーの方がお洒落だった)、極彩色のお金を手に入れました。 オーストラリアのお金、メチャクチャ派手だった! そしてお札は、ニュージーとも一緒で、プラスティック製。 紙じゃないの。 なんだ一緒じゃーんと親近感。






食べ物が一個一個大きくて驚いた。 こんなに食べれるのかと。 周りを見渡すとサーフボードを担いでいる人達が多い。 きっとサーファーだとお腹がいっぱい空くのだろう。






そしてクリスピークリームドーナツがハラール済みなのにも驚いた。 イスラム教徒でも問題なくドーナッツ食べれます。









私がいつも外国に来たんだなあと実感するのが天気予報を空港で見る時。 中心にオーストラリア。 飛び上がって喜びたくなる。






大陸だから天気予報の規模がでかく、長かった。 オーストラリア全土の天気を伝える為には、日本、ニュージーランドの数倍の時間をかけなくてはいけない。 









空港のテレビ、最近では珍しく日本製だった。 

私が子供だった頃は、こういう場所は大概全部日本製の物で占めていた。 

でもここ5年ぐらいの間に、今度はほとんどすべてが韓国製になった。 空港の中で車の展示とかしていても、やっぱり韓国車。 大きなイベントのスポンサーも韓国企業。

日本製の物や、日本企業が、韓国製品や韓国企業に塗り替えられる流れを、私はずっと国外で見ていた。(日本のプレゼンスって本当に、驚愕するぐらいにこの数年間で激減した。) 

久しぶりに日本製の商品を目立つ所で見て、ちょっと嬉しかった。 

っが、ロゴの照明についているセロファン、片っぽ落ちてます。 おいっ! 
日本の面子の為にも直してくれ!と、日本の家電メーカーのサラリーマン家庭で育った私は切に願う。 

ここで私の演歌心爆発。 元々判官びいきのきらいのある私。 何故かこのセロファン片っぽ落ちているテレビのロゴに強烈に同情する。

このロゴは鬱病での自殺や、過労死した人達、残業残業で家にも帰れず空虚な家庭を作り上げた人達の犠牲の上にあるのだ。 会社に入るまでも壮絶な競争を早ければ小学校に入るときから始め、入ってからも競争し、人生を捧げた人達にとっての成功とゴールの象徴なんだよ! せめて、セロファンぐらい…、武士の情けで直しておくれよ。 よよよよよ。

はやく行くぞと、連れ合いに引っ張られ、何をそんなに見ていたのだと聞かれ、事の顛末を話す。 「自国製」とか、「自国の企業」ってのが、愛国精神と入り交じっている東アジア人独特の感覚が分からない連れ合いに、かなりぽかんとされる。 「日本人からしてみたら、松下、トヨタってのは、政府より偉くて、日本の誇りなんだ! 世界にテレビと自動車が供給できていたのが、日本人的にはとても嬉しかったんだ!日本人は日本国民であり市民である前に、日本株式会社の社員なのだ! そして演歌。 今の私は紅白歌合戦並みに、唄心で満ちています。 お能らへんから、日本文化説明させてもらったら、きっとあんさんにもこの感じわかるからっ!」と一応、この感覚を説明してみるも、勿論通じる訳も無く、ずるずると引きずられて空港を後にしました。

止められてなかったら、今度は駐車場でどこ製の車が多いかの調査を始めていたと思う。

演歌。 日本関連の物事を見た時の私のリアクションは、演歌。 よよよ。

想像上のシドニーと現実のシドニー

私にとって未知なる大陸だった、オーストラリアに週末行ってきました。

オークランドからシドニーまでは、飛行機で三時間ぐらいなので、とても近い。

でも精神的距離が非常に遠く、南半球に住んで8年ぐらい立つけど一回も行ったことが無かったんだ。

大概のニュージーランド人は、大阪の人が東京を毛嫌いするように、オーストラリアをけちょんけちょんに言う。 だからさ結構素直にオーストラリアってのは、地獄の釜の底みたいな場所なんだろうと思っていた。

特にシドニーは、オークランドのでっかい版として、本当に酷い所だと聞いていた。

ウェリントンの人達はオークランドが大概嫌いなのね、そしてそういう土地柄の親分みたいなシドニーはもっと嫌いで、みんな悪口ばっかりいっていたんだ。

キャピタリズムによって支配されたシンシティーなんだろうと思っていたんだ。 っていっても私は地上にあるキャピタリズムの楽園、東京出身なので、「ほうほう」とシドニーの噂を聞きながらも「そんなん東京の比じゃないよ」とは思っておったがな。

またまた歴史背景も、オランダ人がこの大陸を見つけて、イギリス人に勝手に$1で売ったとか…、

そしてたまたま冬の砂漠地帯を見たイギリス人達が「ここは流刑地にぴったりだ!」って思って、イギリスの犯罪者を島流しにしたところから移住が始まったとか、

その送られてきた荒くれ者達が、現地の人びと(アボリジニ)を虐殺しまくって、差別しまくったとか、

でも夏はすごい実りの季節で、好物も山ほどあるから、アボリジニから強奪した土地から金目の物をごっそり抜き取って、今じゃお金持ち国家とかって、

ちょっと話しのスケールが大きすぎる。 「それホラじゃね?」って言いたくなるような漠然と広大な感じの歴史。 微に入り際に入りな日本史に慣れていると肝抜かれるわ。

って事で行っていなかった。 心の中で「アメリカとオーストラリアは世界に存在しない事にしておこう。大陸ってのはわけ分からん。」と勝手に片を付けていたのだ。

ところがさ! 行ってみたらさ、本当に素敵な所であった。 今まで行った事がある街の中でも、私の感覚からすると一番美しかった。 人びとは往々に優しかったし、多文化主義の行き届いた町並みだった。

本当に私は偏見に満ちていたなと驚き続けた週末だった!
もっと荒んだ感じの場所を想像していたのに、実際はキラキラした輝いた街だったよ。

見事にニュージーランド人のルサンチマンにだまされていた。

韓国に始めて行った時にも同じような事を思った。
私はとても親密な韓国人の友達が沢山いて、いつも「日本の噂話しや、ニュースで聞く韓国が、彼らを育てた土地だとはどうも信じられないが、きっと彼らが特種なんだろう」と思っていた。 

しかし行ってみたら、文化的で歴史が深く、人びとは親切で愛情深い、素敵な国土を有する場所だった。

今回の経験と抱き合わせて考えると、結果はクリアだ。
要するに、隣近所の人の言う事はあんまり信じちゃいけん。
これ鉄則。


シドニーは本当に美しい港町で、いつも私が何となく思っている事、
結局の所都市の力や魅力は、元々の自然環境にかなり影響されるっていうのを強く実感させてくれた。

シドニーの自然と、そしてそこに人間たちが建てた建築がの呼応が本当に美しかったんだ。

こんな場所が地球があるのかと驚いた。 

連れ合いも始めてオーストラリアに行ったんだけど、終始「なんて素敵な場所なんだ…! 今まで完全にだまされていた!」と驚き続けていた。

馬鹿は私だけじゃなかったか。

二人で手を取り合い、ひたすら街の美しさにうっとりする週末を送った。

オーストラリア万歳!

2010-07-28

お味噌汁とか、おっぱいレイディーとか。

 会社に行きたくないと拗ねてみた。

 そうしたら連れ合いが、日本の朝ご飯をリサーチし、「お味噌汁と白いご飯を炊いたから、今すぐ立ち上がって朝ご飯を食べるのだ!」と励ましてくれた。

 なので最近は朝ご飯和食。 和むわー。

 親友に赤ちゃんが産まれて、彼女は最近おっぱいレイディー道、一直線なママライフを送っている。 私の親友にここまで尽くされるなんて、赤ちゃんは本当にラッキーボーイね。

 きっと彼はスーパークールな奴になって、後々脱おっぱいレイディーをした彼女にいっぱい尽くしてくれるだろう。 その時が楽しみだね! そして言うまでもなく、きっと今も大変だけど、すっごい楽しいはず。 だって、私も勝手に想像するだけでワクワクするもん。 毎日君たちの幸福を祈ってるよーー! にこにこしててねーー!

 朝ご飯が和食なだけで一日が素敵になったり、誰かが私にちょっと優しいだけで、やる気が戻ってきたり。 こういう日常の単純な喜びの基礎を作ってくれたのが両親なのだよなと最近特に実感する。 特にママだね。 ダディーも頑張ってるけど、何故かママには敵わない。 ママが私の楽観さとかの基礎を作ってくれた。

 今その基礎作りを、おっぱいあげながら、新しく産まれた赤ちゃんのなかにいっぱい建てている我が親友は、それだけで頭をなでくりまわして、胴上げしてあげたい位にクールだ!

 そういう事を考えると、今日もとりあえず仕事に行こうと思える。 なんでだろう。 不思議と繋がってるね。

2010-07-12

Wellington

 友達の送別会に行く為に、ウェリントンに行ってきた。

 彼は私の恩師であり、ボスであり、悪友である、とても親密で素敵な友達。 二人で自転車操業の研究室を運営していた。 こっちの夏休みになると、二人で研究の為に冬の日本に帰り、一緒に冒険をした。

 彼のパートナーは当時ミラノに住んでいて、クリスマスになると私達と合流しに東京に来て、私の多摩美の頃の友達も交えて、何年間かとても素敵な冬を過ごした。 

 そんな彼のパートナーは、ブラジル、ミラノと建築家として放浪した結果、ロンドンに居を落ち着けた。 そして長らく超遠距離恋愛をしていた二人は、一生これから一緒に過ごそうと決心したらしく、NZの大学をやめて、彼はロンドンに引っ越す事に決めた。 

 私は冬の度に、東京で恋人としての二人と行動していたので、唯一彼ら二人を良く知っている人だった。 多分、だから彼からしたら私は大切な友達だったんだと思う。 私はいつも彼の行動を、彼と彼の恋人、二人の為の行動として認識していたし、こっちからちょくちょく彼の様子を彼の恋人にも伝えていたし。 私は二人の関係がとても好きで、彼らを思うと胸が温かくなる。

 送別会では彼を好きな人達が沢山来ていた。 彼の生徒も沢山来ていたし、同僚たちもいて、彼の業績や人柄の素晴らしさ、情熱、聡明さを讃えていた。

 通常のケースなら、そこには彼のパートナーがいて、彼の事をすっごい誇らしく思って、心を温かくしたんだろう。 パートナーの不在をすごくすごく残念に思った。 だって、みんなすっごく去って行く彼を讃えていたから。 現場にいたら、本当に本当に誇らしく思っただろうな。

 その事を今度ロンドンにメールして、伝えてあげなきゃって思っている。 「想像するだけでもすっごく嬉しくなっちゃうぐらいに、みんな君の恋人が大好きで、特別だと思ってるんだよ!!」ってさー。 結婚(って言っても、デファクトにするらしいけど)への最強のはなむけだよね!

 私も、こんなに素敵でかっこいい子と、友達な事がすごく嬉しくて、去っちゃう事は寂しかったけど、すごく幸せだった!

 彼の素晴らしい所の一つは、わざとらしくない、でも上品で親密な愛情表現だと思う。 私には数人ウェリントンにとても親しい友人がいる。 高校生の時からの友達で、彼も私を通じてたまに会っていた。 そのうちの二人とは東京で一緒に旅行をしたし。

 でも送別会に呼ぶほど親しくはないだろうと思っていたので、最初彼らを招待したと聞いた時はその太っ腹ぶりに感心した。 彼は「お世話になった人達に感謝の念を示したい」って事で送別会の為にかなりの額を自分で出したし、私の飛行機代も出していたので。

 ぼけーっとしている私は、案外すごく彼らの事が好きだったのかなあと思っていたんだけど、後になって私の友達に「あんながすごく楽しめるように、あんなの好きな人達もみんな呼びたかった」って言ってたよと言われた。 友達は彼に「招待してもらうのは申し訳ない!」と言ったみたいなんだけど、「来てくれたらあんなが喜ぶから」って言って誘ったみたい。(勿論彼らが、そこまでいっぱい遊んだ訳じゃないけど、お互いにとても好意は持っていて、いい関係だってのが前提にある)

 私はそれを聞いて、すごく感心した。 なんて良い人なんだろうか。 私は感情的であけっぴらに「大好き大好き」ってやるから、そうしない彼は、「まあ、悪くないんじゃない?」って程度に私を好きなんだと思っていた。 でも、考えてみたら、いつもすごくサポーティブでいてくれたし、支えになっていてくれた。 そして私の友達にもとても優しかった。

 今回は自分の送別会の中に、マトリョーシカみたいに、私の親密な友達同士のパーティーも内包してくれた。 そういう男なんだよなあと、すごく相手の事を誇らしく思った。

 なんて素敵な男の子なんだろうね。 本当に本当に誇らしかった!

 彼に対して大好きな気持ちでいっぱいで、とても幸せだったその夜を、私の他のとても大切な子たちと一緒に過ごせたのは最高だった。 私は高校のときの友達と手をつなぎながら、みんなが去って行く彼に言う素敵なスピーチを聞く事が出来た。

 高校の時からの友達には「彼は本当に素敵で、愛情深い人だね。こんな友達がいてよかったね!」と言われて、結構ほろりときた。

 去って行く彼からは、ロンドンで新しい生活をパートナーと始める事で、大興奮で、とても幸せなのが、横にいてひしひしと伝わってきた。 それもすごく嬉しかった。 で、彼のいろんな人にたいして持っている強い愛情と忠誠心は、パートナーとの関係が充実しているからなんだよなってすごく納得した。

 私は多分、ホスピタリティーとか思いやりを実行する技をまだあまり持っていないんだと思う。 いつも友達の私にしてくれることを通じて「こんなに人に優しくしていいんだ」って知る。 その度に、温かくなれる。 熱を分けてもらえる。 体の細部に血が巡る。

 嬉しいね。

2010-06-30

ゆっくりとした生活

 大学の先生が私の仕事を選んだときの基準の一つは、きちんとした生活が出来るか否かだった。

 教授曰く働き始めた当初に、家庭があって仕事の外にきちんとしたコミュニティーとかが持てている人達や、きちんとした生活がおくれている人達と働かないと、その後の仕事観や生活観、家庭観がちょっとゆがんでしまうらしい。

 だから若いときは、良い人達と働いて、生活ってなんなのかとか、自分が価値を置くべき事はなんなのかをゆっくりと学べと言っていた。 仕事はその後についてくるからってさ。 「規模はどうであれ、誰もがいつかは家族を作るし、子供の見本になるべき大人になる。 そのときに豊かな生活の知恵を持てている方が良い。」ってのが彼の主張。 特にデザイナーで、人に物を作る事が商売な場合はそうだよね。
 
 実際働いてみて、本当に教授の言っている事の意味が分かった。

 規律のある生活は、確かに私を成長させてくれたと思う。 成長…、というか、知らなかった事を知ったと言う方が正しい言い方だな。 時間的な意味で規律を持てると、生活のリズムを作れる。 昨日と同じような時間割の今日を過ごすと、昨日には出来なかった事が、今日は出来るようになっていたりする事に気がつける。

 大きな事じゃないけど、例えば、美味しい料理がぱぱぱっと作れるようになったとか、それで空いた時間で家人にもっと優しくなれるようになったとか…、そういう事を繰り返していける。

 で、すごく心や体に栄養が回った感じがする。

 案外数年したら私は仕事命で、徹夜大好き、サービス残業大好物なワーカホリックになっているかもしれない。 でも大学を卒業した後にした、この生活重視の期間で学んだ事は忘れないだろうなと思う。

越冬

今うちの暖房器具は、暖炉だけ。

暖炉を使って生活していると、一つの部屋を暖めるのに、随分と薪が必要なのだなと気がつく。

一つの冬を越すのに、何本の木が必要なんだろう。 部屋を暖める為だけに燃えて行く薪を見ながら、エネルギーの無駄遣いだよなあとも思う。

実際目の前にある物が燃えていくと、「本当にこんなに燃やす必要があるか」とか、「どれぐらいの温かさを望むか」とか、「いつあたためるか」とか、服の着方とか考えるようになる。

薪を割るのって結構難しくてコツがいる。 割りながら、その木の持っている歴史を考える。 縦に割るのは簡単。 横には難しい。 水をくみ上げていた跡さえ読めたら、そこをこつんと叩けば木は割れる。 暖炉にくべる用の大きさにするときいつも「これだけの大きさになる為に、どれぐらいの時間がかかるんだろう」とか考える。 樹にも命があるって生々しく感じられるようになる。 いつもいただきます、ありがとうございますと言いながら暖炉にくべる。

古い家に住むと、小さな一つ一つの行動に愛おしさや、尊さが生じる。 不思議と、本当に一つ一つの行動に、喜びが宿る。 家に対する働きかけ、家を維持する為の、家と共に生きている実感。 全てがなぜかそういう温かい気持ちに繋がる。

不便だし、(通俗的な意味で)効率的じゃないけど、一回は古い、骨董品みたいな前近代建築に住む事をすすめる。 すごく、すごく良い経験になる。

「こういう暮しかたをしていて、こういう不便さを消したくて、物事は発展して行ったんだなぁ」ってのを生活を通じて知る事によって、批評的な見方が養える気がする。

ザ ロハス!みたいな発言だけど、ロハスっていうよりは、ただ単にもうちょっとおおらかに人々の営みの歴史と繋がる為に一回やってみると良いと思うんだ。 下手すると10年前の生活スタイルすらもが古く感じられてしまったりする。 そういうスピードじゃなくて、「そうかー、じいちゃんばあちゃんが私ぐらいの年齢の頃はこうやってくらしてたのかなー」とか、「案外ママとかダディーが幼い頃もこんなかんじだったのかな」って感じにさ。 再発見出来る事も多いよ。

2010-06-26

GとT

高校大学と通してクラスメイトだった友達が二人いる。 GとT。 私は彼らと大学に入ってから、すごく仲が良くなった。

 彼ら二人は、小学校からの親友で、傍目から見ていたら恋愛関係に見えるぐらいに深い友情を持ち合わせている。 私もずっと彼らをゲイのカップルだと思っていた。

 感度最強の脳内ゲイダー(誰がゲイかを見分けるレイダー)を持ち合わせているとされている、私のゲイの親友(彼も高校からの友達)すらもがずっと彼らをゲイのカップルだと信じ込んでいたぐらいに、強固なブロマンスを育んでいる。 私はそんな彼らの濃密な友愛の輪に入れてもらった。 私達についたあだ名は、Team thresome(チーム 3P). プレゼンの直前に三人で手をつないで輪になって、ぶつぶつとつぶやいていた(祈っていたのだ)所を目撃した講師に名付けられた。

 そんな大切な私のGとTは、最近ヨーロッパに越して行った。

 Gは長年の遠距離恋愛をしていた子と、共同生活を始める為にロンドンへ。 「ロンドン引っ越しても仕事ないだろうから、起業する」と勇気を奮い立たせてイギリスに行った。 そして、そんな様子を見たTは「お前が起業するなら俺も行く」と一緒に働くためついて行った。 さすがなブロマンス。

 でもTが行った先は、御自身の母親の実家のあるポルトガル。 おーざっぱだな!!! まあ、近いっちゃ近いけど、遠いっちゃ遠い。

 そして勿論GとTには「お前もこい」と言われている。 チーム3Pだからね!

 でもさー、NZの子は大抵何個か国籍持ってるし、先祖がEU出身な場合なんかは特に「長野から埼玉に引っ越す」って感じでいろんな国に引っ越せるけど、こちとら、近隣諸国に行く際にすらヴィザを本気で取得する為のプロセスが必要な、国際関係的なガラパゴス、日本国出身者。 

 悪いが私の国にはそんなおおらかな友達はいない。 同盟国であり、基地の提供すらしているのアメリカさんの国土内での労働すら許可されとらん、ひじょーーーに、ガラパゴスな国籍所有者なのでそう簡単には動けません。

 だから乗り継ぎの韓国の空港から私の職場に電話をかけてきて、「俺今からポルトガルに行くけど、あんなもおいでなさい」なんて、そんな無茶ぶりはやめてくれ。 NZでの労働ヴィザをとるだけでも私精一杯ですので。

 私は子供が「なんで私の家ではリカちゃん人形が買ってもらえないの?」って感じにしょげる。 「なんで私の国で産まれちゃうと、どこの国からもすごい難しいプロセスを踏まないと住んで言いよって言ってもらえないの?」って思う。

 でもまあ、考えてみたらつい最近まで、日本のご近所さんは、ロシア、中国、北朝鮮、韓国、台湾と、無条件で人の行き来を許す為には、日本もどっちかっていうと赤くなったり、国政荒れた方がいい感じなコンディション。 日本のシャイさも関係あるかもしれないけど、近所の人達にも難あり! これからに期待だ! 

 なので国際電話で、私の国籍のコンディションを説明した。 「消費者じゃなくて人民にならなくちゃいけなかったし、なっていたら余計にEUなんて行き辛いわい」と。

 ポルトガルに行くTは、お父さんが南アフリカ出身の黒人系アメリカ人、お母さんがポルトガルからの移民一世のアメリカ人(NY出身)で、NYで結婚してNZに来た。 この時点で彼は生まれながらに、NZ国籍(これでオーストラリアで無条件で永住ビザ発行してもらえる)、アメリカ国籍、EUと南アフリカの永住権を持っている。 そりゃ、好きな時に好きな所に引っ越ししやすいよな。 ほとんどの大陸制覇じゃん。

 やっぱりなんだかんだで、永住権とか国籍何個か持ってる子たちの方が、就職に対する危機感とか、キャリアの組み立てとか、おおらかにやっている。

 「結婚しよう。そうしたらアンナも動きやすくなるから」とチーム3Pならではな、おおらかな事を言ってくれたので、「考えとく! マジで考えておくから、君はまだ誰ともつきあわないでっ!」と返事しておいた。

 英語覚えろとか、東大に留学生増やせとか、色々小手先な事を日本の人達は最近言っているけど、とりあえず近隣諸国と仲良くなる、もしくはせめて同盟国ぐらいは自由に行き来させてもらえるようになるって次元を求めた方が、英語を覚える意味も、留学生を受け入れる意義も生じてくるよねえ…。 そんな事を思ったなり。 でもそんなプロセス想像するだけでも200年ぐらいかかりそうで(その間に総理200人)ぞっとするから、個人レベルでがんばろうっと。
 
 日本ぐらい国籍からの制約を受けている先進国の国民も少ないだろうから、まあそこを面白がるのも手かもね。 どうやって面白がれば良いのか分からないけど、とりあえず「珍しいだろ!」ってさ。 ミニマリズムの境地だよ。 日本国籍だと国籍一個しか持てないし、融通が効く場所も日本しかないし、もうこれ以上そぎ落とせない境地。
 
 私の友達は大抵Tみたいに、色んな選択肢を持っていて、大人になってから便利に使っている。 比べてもしょうがないけど、どっかは比べてしまう。 考えさせられるよなー。

2010-06-25

言葉

 小さい頃、「イギリス人の英語の発音は綺麗で好きだ」と父親に言った事がある。


 そうしたら父に「僕は色んな国のなまりが残っている英語が好きだ。」と言われた。 父ちゃんはリベラルで国際的なアメリカの大学に行っていたので、移民や難民の研究者が沢山いた。 学生も世界中から来ていた。


 実際自分もイギリスでは誰の英語が正しい英語のアクセントなのかなんて分からない位に、多国籍の子たちがいる学校に通っていたし、彼らのなまりがとても好きだった。 私のなまりも好かれていると知っていた。 よくまねしあいっこをしたし、みんなから彼らの母国語を教わった。 言葉を教えあうのは、遊びの一環だった。


 「考えてみると私も、誰の言葉も大概綺麗だと思うし好きだ。」と気づき直して、父と娘の話は違う横道にそれて行った。


 違う時、「語彙が増えない」と嘆いた私に父が、「ただ語彙を増やそうとせず、頭を使え。 分からない事に適切に質問できる力と、人が教えてくれた事を理解できるようになれ。」と、これまた「そりゃそうだ」なつっこみを入れてくれた。 だからまず、どうやって質問したら、自分が理解できるような返事を貰えるかを考えるようになった。 そして「その言葉の意味が分からないので教えてください」って聞く癖が出来て、これはこれで良かったと思う。 数えきれない程の人達に言葉の意味を教わった。 実際のところ大概の人達はものすごく親身にやってくれる。 私の言葉は、私と社会の協力で豊かになる。


 大学での論文が書けないと嘆くと、「自分の言葉を書きなさい」と父に言われた。 「自分の頭で考えて、並べた言葉を使いなさい。」ってさ。 これは、父ちゃんの大学の先生が、父ちゃんに口をすっぱくして言った事らしい。





 「誰の言葉でも、どのような話し方でも、聞く意義がある。 発音や語彙の量、文法の稚拙さで人を差別するな。」って、親が子供に教えておくべき基本中の基本な事柄だと思う。 大人になってからもいつも気にしている。 相手の言葉のレベルで、相手に偏見をもったり差別したりしていないかって。


 あとわからない言葉がある事も、それを人に質問して、意味を理解しようと頭を使う事も全うだ。


 自分の頭で考えた事を、相手に伝わるように、自分の言葉で話す事も大切だ。 別に自分の意見そのものに執着する必要は無いと思うけど、でもその意見が本当に自分の頭(もしくは心)からの意見なのかどうかはきちんと批判的に考えた方が良いと思う。 殆ど唯一それが、自分自身を知る方法だと思う。


 なんかこんな事を考えると、私は父親の言語観に強い影響を受けているのだなあとしみじみ実感する。


 言葉は自分を育ててくれた人達からの遺産だ。 大切にしたい。

2010-06-22

この季節のオークランドの空は、
雨雲が漂っているか、虹がでているかのどちらか。

いつも、ちょこちょこと雨が降り、
雨がひくとその度に何個も大きな虹が出る。

ウェリントンではそんなに見なかったけど
こちらでだと、「空には虹が出てるもんです」ってな感じに普通に出る。

よく、"虹の麓"って昔話に出てくるじゃん
てっきり見れないものなんだと思ったてたんだけど、この間見たよ。 

草原の横を車で走っていたら、すごく近くに虹の麓があったの。 

で、車と同じスピードで移動しているように見えた。 

月みたいに。

こっちと同じに動くの。 不思議だったー!

私は虹からロマンティックな感じとか
奇跡とか平和とかはあんまり感じなくて
どっちかっていうと理科の喜びとかが沸き上がる方。

毎日、「ああ、地球って理科の玉手箱だーー!」って眺めている。

うっとりっていうよりは、ワクワク。

2010-06-21

ゆっくりをたのしむ

 ちょこっと体調をこわした。 
焦り過ぎとか、不安感から、変な体調になってしまった。

 病は気からって本当なんだなぁ。

 最近は以前のような無茶が出来ない。
体力の使い方に技術がいるようになってきた。

 ちょっとずつ、新しいことに挑戦していっている。

今やっている事が自分をどこに連れて行ってくれるかが楽しみ。

愛すべき友人の生存をブログで確認。
正直、ちょっと君の事忘れちゃってたよ。

忙しかったのかな。

友達の文章から、
相手の愛ある命を、ちょっと分けてもらった気分。
はっきりと相手の事を思い出した。

そうだ、こんなに素敵な友達がいるんだと嬉しくなった。

さーて、私も、ブログ続けよーっと。

2010-06-20

ひっ ふっ みっ よっ!

 この間日本に帰った時、小沢健二さんの「ひふみよ」コンサートに行った。

 すごく良いコンサートだった。 性的だったし、温かかったし、生き生きとしていたし、カラフルだった。

 私はたまたま恋人が近くにいない者同士で、このコンサートを見に行った。 遠くにいる恋人を思う二人組として。 二人とも見ている先は似ている。 いい感じに平行関係な友情。

 私と彼は、二人でお互いの肩に手を回し、ぴったりとくっつきながら(っが、勿論そこに恋愛的要素は無い。 もっと、共産党員の連帯みたいな親密さだ。)音楽を聞きはじめた。

 すぐに恋人が恋しくて仕方がなくなった。

 彼が奏でる音楽は、二人の成熟した関係の人間たちが、優しくくっつきあって踊る為の音楽に編曲してあった。 誰かと踊る為の音楽。 ワルツ、タンゴ、スローダンス…、恋人達が向かい合って、見つめ合い、頬を寄せ合い、腰に手を回し、お互いの動きに合わせて、音楽を背景にお互いの生を愛しみあう為の音楽だった。 継続を望み、日常を重ね、一緒に歳をとって行く事 を喜ぶ為の音楽だった。 「こりゃ小沢健二さん、良い関係をパートナーと持ってるな」と思わさせられた。 

 また「他の所を見てみたい。そこで暮してみたい。色々知りたい。」っていう単純なアウトゴーイングな性質を、小沢健二さんが今回とても強く表現していたのがとても嬉しかった。 彼の音楽からは、彼が彼のパートナーと一緒に旅行をしているんだろうし、 二人でいろんな意見をかわし合ったり、新しい人達と出会ったりしているんだろうなと思わさせられた。
 
 私はそういうのがとても大切だと思う。 一緒に旅行や冒険が出来て、新しい人に一緒に出会えるようなパートナーがいるってのは素晴らしい事。 一緒にご飯を食べて、一緒に踊って。 成熟したもう一人の人と人生を共に過ごす事の喜びを、きちんと歌っていた。





そして小沢健二さんの持っている社会への意見や好奇心が、私のと同類で、それをとても不思議に感じた。 小沢健二さんの音楽を好きになった小学生の頃なんて、社会意識なんか持ってなかったし小沢健二の政治性なんて知らなかったのに。 普段では、特に日本では「ナイーブ」だと言われて終わるだろう、リベラルでラディカルな社会関心と意見を彼が持っているのがとても嬉しかった。

 本人すらもが意識していない、志向性や、考え方のパターンが、言わずとも溢れ出てしまうってのが音楽/芸術 表現活動なんだとしたら、それって本当にすごい事。アティチュードのコミュニケートする力って驚異的だ。

不思議だし、勇気もわいた。

 英語圏では意見の一つとしてまともに取り扱ってもらえる内容も、日本では社会的に抹殺されている(もしくは始めっから存在しない)ので、彼みたいに影響力がある人が堂々と意思表示する事は良い事だと思った。 勇気が出た。

 私は絶対に彼が言う社会的関心事を、ナイーブな事だとは思わないし(というか、そうじゃない方が逆にナイーブに思える)そういう意見を受け止めてもらえたり、一緒に話せる人が周りに多い場所に住みたい。 要するに、いつでも出来るだけコスモポリタンな状況にいたい。 そうじゃないと見えてこない事ってあまりにも多い。 そして私は、そこから見えてくる物事が見たいのだ。

 旅行や新しい場所に行ってみたい、住んでみたいって思う事や、一週間の生活にメリハリをつけたいと思う事(例えば、都会と田舎、両方で時間を過ごす事)、そして世の中に対して出来るだけリベラルな意見を持ちたいと思う事って、根っ子が一緒だと思う。

 まだその根っ子を「これだ!」って名指す事は出来ないんだけど、この根っ子を大切に、いっぱい色々と自分の中で成長させるぞと思う。

麗艶

2010-06-19

ゆっくりとした週末

 週末なので、連れ合いの実家(森の奥)に来ている。 

 仕事の為にMacを担いできた。 窓からの景色は素晴らしく、すこぶる仕事がはかどる。

 昔は仕事をしに田舎に籠る人達を不思議に思っていた。 別荘をわざわざ買う人とか、スキモノだなぁと他人事として聞いていた。 でも実際自分が家でするような仕事(例えばグラフィックデザイン)なんかをするようになって、初めてその価値が分かった。 確かに田舎の景色の素晴らしい、森の奥にいると、不思議と集中できるのだ。 そしてどうしてもぎすぎすしていってしまう心を解放する事ができる。

 もくもくと作業をする。 平行して、平日では作れないようなプロセスの長い料理を一日かけてする。 夜には家に帰ってきたり、遊びにきた人達とお酒を呑んだり、ちょっと話したりして、早めに寝る。

 「ああ、幸せだ」と胸の中に満ち足りた気持ちが沸き上がる。

 いつか自分がどこか違う街に住むようになっても、やはり週日は都会で、週末は自然の中で過ごすような生活を保ちたいと思う。 まあ実際の所は難しいんだろうなと想像するけど、(今のライフスタイルはたまたま偶然幸福な事にこうなっているって側面が大きい)望めはそうなるだろうから、強く望む。

 そして旅行や、新しい土地に住む 希望に胸をふくらませている。 私は私の日常生活が好きなので、余計に他の地域への好奇心や想像力がふくらむ。 新しい所に行きたいな。

2010-06-17

夜の水







 東京は夜の水辺が好きだ。 これは皇居のお堀。 右側が丸の内、左手が皇居。 皇居は真っ暗。 

 東京の、中心が真っ黒になる感じや、その周りに水がたっぷりとある感じ、そこに光が降り注ぐ感じ、全てが味わい深い。

 真夜中に街を歩いていると、断絶した事になっている、その街の過去とぐにゃりと繋がる感じがする。 お化けもいっぱい出そうだしね。 暗闇の中では、特定の時代から抜け出した、どろりとした固まりみたいな、その土地を覆う空気の中に入る感じがするのだ。

2010-06-14

ぎゅっと

 お互いの体をぎゅっと支えるときは支えあって、一緒にいられないときは恋しがって。 そういう味わいを、自分の日常に与えてくれる、そんな友達は宝物だと思う。

 だらだらしてても、めりはりなくても、疲れていても、お互いにちょっと適当でも、自分も相手もオープンで、お互いにどう思われているかに不安が無くて、嘘が無い関係が築けていたら、それは本当に素晴らしい。 そういう関係持ててたら、ベストだろ。 

 その程度の誠実さを持って接してもらうだけで私はとても幸せになる。

 そして私はそう思えるような質の、仲のいい友達を結構持っている。 私は「友達」よりも「親友/ベストフレンド」の方が多い。

 ぎゅっと、ぎゅっとしあう友達。 意地悪もするし、つれないときもあるけど、でも一緒にいると嬉しいし、楽しい。 自分のいい面を引き出してくれる友人たち。

 大学を卒業して、そういう友達が身辺からがらっと減った。 年齢、環境、そんな事もろもろが影響して。 みんな就職の為に世界中に散らばっちゃったし、会社で作る友達って幼なじみとかとはどっか感覚違う。 それにパートナーが出来始める年齢だから、自分とパートナーの間の家庭への傾注に私生活の時間が使われるようになる。 急激に(私の場合は)友達が周りから減った。





 高校、大学と一緒だった幼なじみの友達とは、鏡を見るたびに二人でくっつきあって写真を撮った。 二人が一緒に写っている写真を持っているのが好きだった。 要するに私は彼が大好きなのだ。 腹心の友だ。

 ロンドンで起業をするために、最近彼はヨーロッパに引っ越して行った。 gmailやらskypeやらを開くたびに、彼が今いる場所の地名が名前の横に出る。 うらやましいし、寂しい。 一緒にいられたら良いのにと思うよ!

 そしていつも簡単にぎゅっと出来た時期の事を、奇跡のようだったと思うのだ。

 いつか長期的に住むところがきちんと決まったり、もっと他の世界と簡単につながれるような地理的状況に身が置けたら(NZ世界のはじっこ過ぎる)絶対にまた良い友達を沢山作りたい。 そんな欲求がぐわわわわーーっと盛り上がった。

2010-06-08

ひふみよ

 友達の結婚式程度では帰国しないけど(失礼)、小沢健二の為なら帰る。
今回の旅の公式な目的の一つは、小沢健二のライブに行く事だった。

 いやはや良かった。 とてもとても楽しい時間だった。

 親友と共に中野サンプラザで、素晴らしい時間を一緒に過ごしたよ。


 ある程度仲良しの友達を親友と呼ぶ癖を、人によく面白がられる。 でもみんな一番だから、どうしてもBest friendって言葉が浮かぶんだ。 距離の近い友達は、比較対象が無いから皆ベストだ。 瑞穂とケイスケを比べたり、ディランとトーマスを比べる事に意味は無い。 “私とこの人の関係の中でベストが築けている”と思えたら、ベストフレンド。


 

2010-06-07

早く会いたいね

 今回の日本の旅行で一番ワクワクした出来事は、勿論妊娠している親友に会いに行く事だった。

 彼が産まれる時(あと3週間ぐらい!)には、私は日本にはいないから、ちょっとカンニングをしてきた。 近代医療技術の発達は素晴らしいもので、今は超音波を使ったスキャンで、お腹の中が覗き見できちゃうのよね。 まだ会えないのならば、覗き見するのみ。

 「君には私が見れないが、私はばっちり君の背骨まで覗くぞ!!」って意気込みで、親友と一緒に病院へ。

 何んかの挑戦なのか?ってぐらいのながーい待ち時間(昼ご飯を食べ忘れた私達は、最終的には飢えた獣状態になった)の間、ずーっと赤様の住んでいらっしゃる親友のお腹をなでくり回し、ちょっとでも赤様が動けば、私と親友で大喜びしたよ。 親友はさすがに彼がお腹の中にいるのに慣れてきたようで、ぽこぽこと優しくだけどお腹をつついていたりした。 私はそんな勇気無いので、終止なでくり回しに徹した。 だから待ち時間長かったけど、楽しかった! 多分これからずっとこうなんだね。 何があっても君がいたら楽しい!

 ちょっと動くだけでも本当に可愛い。 っていうかなんか猛烈にかっこいい。 親友も赤様も幸せで元気なのが、横に座っているだけでもじんわりと伝わってきて、私も本当に嬉しかった。 いっぱい動いてくれて、お腹の上に置いている私達の手に、「元気だぞ!俺ここにいるぞ!」ってメッセージを沢山送ってくれた。 君の生命を感じたよ!!

 それにしてもこんなチャンスないと、いくら親友と言えども、腹の内までは覗けない。 今回、じっくり見て来ました。 いやー、腹黒かった! 暗闇に、ちらりと見える、育ちに育った、すくすくの王子様。 友人の腹の中に鎮座しとった。 もう育ちに育っちゃって、超音波は感度がすごくよく設定されているから、彼の骨やら心臓やら臓器やらの方が、どちらかと言うとよく見えた。 だから今回はまだお顔がどんな感じかとかは分からなかった。 もうちょっと前の妊娠段階の検査では顔とか分かったみたい。





 いやー、こんなデジタルな出会いをしてしまうと、今度ははやく温かい赤ちゃんをキュッてだっこしたくなるね。 はやくいっぱい握手して、チュッチュってして、面白い冗談とか教えてあげたくなるね!

 赤ちゃんが産まれる度に、誰かを大肯定出来る喜びで、胸がいっぱいになる。 「何が何でも大好きだし、大肯定!」って思える人に出会える喜び。 それは産んでくれたお母さんにもそうで、これまでのお前様のどす黒く、けれん味に満ちたファンキーなライフを、友人としてもう、大大大肯定だよ。 でかした! 君、でかした!!

 勿論彼の母親の友達っていうレベルでだけれども、出来る事はなんでもしてあげたい。 私に出来ない事は沢山あるから(一人の人に出来る事なんて限られている)、頑張って出来る事はいっぱいするよ。 おばちゃん、一生懸命なぞなぞとか覚えるよ。 あと、一発芸とかも身につけるよ。 いろんなことを一緒に経験しよう。 母親の女友達としか出来ない遊びってのもきっとある。 世界で一番幸せな人になっていただきたい。 そして、勿論親友にも世界で一番喜びに満ちた親体験を満喫してもらいたい。 これからもいっぱい一緒に遊ぼうね! おめでとーーー!

2010-06-06

雨降りしとしと

 せっかくの週末なのに、雨降っていて残念。 連れ合いとくだらない曲をレコーディングして遊んでいる。 すごいあげあげな感じだけど、実際は全然こんなにあがっちゃいない。 普通の雨降りの日曜日。


2010-06-03

成田→東京

 短期間で帰国するのはいつも楽しい。 前の日まで働いていて、飛行機に乗って、ふと目を閉じて開けたらジャパン。 小さなワープ。

 空港からして既に、違う体の動かし方をしている人達がいっぱい。 そして売っている雑誌の特集が非常に独特。 そして日本語で溢れかえっている。 着いたその瞬間からワクワクする。 なんて独特なんだ! 全てが緻密で、丹精。

 そして成田空港の物語の無さ。 ヒースローやJFKとは明らかにロマンチシズムの量が違う。 (はたはたとたなびくプロ市民の人達の空港に対する抗議活動のプラカードの持つ物語。 まあ、ある種の昭和の物語は強く感じる。) ただそこから大量に日本各地に繋がって行くバスや電車の持つ強烈な旅情。

 成田エクスプレスの窓から見える、緑豊かな水田や、森や畑。 この数をきっと無限と言うのだと思わさせられるような、大量の葉っぱ、葉っぱ、葉っぱ。 日本のデリケートで小振りな植物たち。 そこに広がる、小さな、小さな、でも大量の葉っぱ。 豊かな、豊かな景色。

 いつも成田から千葉市内に入るまでのその田園風景を見ながら、この景色を力強く、堂々と、美しいんだと言えるような社会になったら、結構今社会にあるジレンマは多少は解決されるのじゃないかと、ナイーブに考えたりする。(でもナイーブさって大切だ。 ある種のナイーブさは正論に繋がっていると思う。)

 窓から見える景色の、美しさ、奇妙さ、歪さ、豊かさ、貧しさ。

 こんなにツルツルピカピカのスーパーファインな電車が作れる位の知力があるのに、大国の首都に繋がる国際空港を成田に建てちゃう愚かさ。 興味深い。

 そして電車は極端に人工物を使った発展を遂げた都市部に突入して行く。 たまに日本の人で「日本人の自然観は特殊である。 そして優れている。 自然崇拝。 八百万の神々。 自然を超越し、自然に打ち勝つ事を目的とした西洋とは違うのだ。」と言う人がいる。 まあ、理論的にはそうなのかもしれないけど、実践レベルではどう好意的に見ても、言ってる事とやってる事ちぐはぐだよなと思いながら眺める。 このエピソードは私に「ものは言いよう」という言い回しの意味を教えてくれる。 そして"西洋圏"以外で行った事がある全ての地域の人達が、全く同じ事を言っていたのを思い出して、これは「とりあえず言っておけ的」な説明なんだろうと推理する。 トンガでも、韓国でも同じような自然観に関する事を人びとは言っていた。 それが八百万かどうかはさておき。

 大量の団地やらマンションやらが立ち並ぶ景色を見ながら、その中で生活している人たちの事を想像する。

 丹精な小さな明かりたち。 その中に、沢山の人びとの一回っきりの人生がある。

 人びとは様々な事を考えながらも、多分、この電車で3時間ぐらいの移動距離の内側での常識や、通じる言葉、プレッシャーに形成される環境での日々を過ごす。

 そしてこの短い移動距離の間にそれこそ、私には想像もつかないほどの自由さや、喜び、伸びやかさや愛情がひしめいているのだなとも思う。

 実家の門をくぐると、私は日本の内側にいて、もう、外側からどう見えるかとかはうっすらとした記憶になる。 
 

2010-06-02

踊る

 昔の同居人と、彼の友人たちが作っているブログ'History of Our World'がとても良い。 私は耽美とかゴシックとかからほど遠い人間なので、身近な人間がその役割を担っていてくれた大学時代は、今思い返せば極端な美しさを伴った瞬間が多かった。

 そんな彼らのブログの昨日の記事がたまたますごい偶然で暗黒舞踏についてだった。 彼らのブログ上にて久しぶりに暗黒舞踏の写真を見て、私は日常的に「こんなもんだよね」とか「あってあたりまえの表現方法」と、どれだけ多くの優れた表現をなめてかかっているのかと反省させられた。

 これからもそうやって沢山の世界の切り口に、私は生々しく出会い直すだろう。 時には他人が促してくれて、時には私の生そのものがその切り口につまずく事によって。 そう考えると、寂しくないね。

 最近芸術表現者たちの訃報が続く。 ピナや、ブルジョワや、そして昨日の大野一雄さん。 今朝、大野一雄さんの訃報を知った。 死神みたいに死者周辺にわき上がる物語に集ったり、死や消滅に伴うドラマに酔いしれたりはしたくない。 ただ、それでも一つの巨大な才能と、表現を、そしてその生を祝福したい。 今、'History of Our World'を見ながら、大野さんに対する歓喜、称賛、喝采が私の中でやまないよ!

 ブラホー! ブラホー! ブラホー!


2010-05-24

tokyo from annapandatiger on Vimeo.

天空在飛 都市在飛






天空在飛 都市在飛
沖出雲層 變成星辰
噴出火 撕破黑暗
超級城市往空中飛

TOKIO TOKIO 抱住一對情侶
TOKIO TOKIO 飛在天空

你說那是 飄浮海面的陽光幻影
凝視它使人感覺離開人間
香煙流了淚

TOKIO 溫柔女人甜眠的城市
TOKIO TOKIO 飛來天

tokio

求められるとうれしいか

 昨日、一緒に夕飯を食べた子が「子供は5歳ぐらいまで母親がいないと生きていけない。全身で求められる。 そんなに素晴らしいことはない」的なことをいっていた。 特にその子自身の意見じゃないみたいなんだけど、そういう見方もあるという感じで話していた。

 よく人が「人に求められる喜び」を話す度に、特に求められても嬉しくなったことがないから納得できたことがない。

 女の子が自分に好意を持っている男の子の話を、他の女の子にするのは「自分は誰かに求められているのだ。 誰かに好かれているのだ。」と示したいからだと言う人がいる。 おじさんが仕事の話を他の人にだらだらとするのは、「俺は求められているからだ」と示したいからだと言う人がいる。 それを聞いて「そうよね。」と言う人がいる。

 私個人は、別に「求められている」っていうのが「嬉しい」につながらないので、本当にそのロジックがわからない。 なんで求められると嬉しいの? なんで必要とされると嬉しいの?

 好かれたら嬉しい。 優しくしてもらうと嬉しい。 一緒にいたら楽しい。 その嬉しいとか、楽しいって部分を分解すると、「求められているから嬉しいんだ」とかってなるの?

 連れ合いは私に何か優しいことをするととても嬉しくなるんだそうだ。 私も連れ合いに優しいことをすると、胸が暖かくなる。 でも別にお互いそんなに求め合っちゃいないんじゃないかと思う。