今うちの暖房器具は、暖炉だけ。
暖炉を使って生活していると、一つの部屋を暖めるのに、随分と薪が必要なのだなと気がつく。
一つの冬を越すのに、何本の木が必要なんだろう。 部屋を暖める為だけに燃えて行く薪を見ながら、エネルギーの無駄遣いだよなあとも思う。
実際目の前にある物が燃えていくと、「本当にこんなに燃やす必要があるか」とか、「どれぐらいの温かさを望むか」とか、「いつあたためるか」とか、服の着方とか考えるようになる。
薪を割るのって結構難しくてコツがいる。 割りながら、その木の持っている歴史を考える。 縦に割るのは簡単。 横には難しい。 水をくみ上げていた跡さえ読めたら、そこをこつんと叩けば木は割れる。 暖炉にくべる用の大きさにするときいつも「これだけの大きさになる為に、どれぐらいの時間がかかるんだろう」とか考える。 樹にも命があるって生々しく感じられるようになる。 いつもいただきます、ありがとうございますと言いながら暖炉にくべる。
古い家に住むと、小さな一つ一つの行動に愛おしさや、尊さが生じる。 不思議と、本当に一つ一つの行動に、喜びが宿る。 家に対する働きかけ、家を維持する為の、家と共に生きている実感。 全てがなぜかそういう温かい気持ちに繋がる。
不便だし、(通俗的な意味で)効率的じゃないけど、一回は古い、骨董品みたいな前近代建築に住む事をすすめる。 すごく、すごく良い経験になる。
「こういう暮しかたをしていて、こういう不便さを消したくて、物事は発展して行ったんだなぁ」ってのを生活を通じて知る事によって、批評的な見方が養える気がする。
ザ ロハス!みたいな発言だけど、ロハスっていうよりは、ただ単にもうちょっとおおらかに人々の営みの歴史と繋がる為に一回やってみると良いと思うんだ。 下手すると10年前の生活スタイルすらもが古く感じられてしまったりする。 そういうスピードじゃなくて、「そうかー、じいちゃんばあちゃんが私ぐらいの年齢の頃はこうやってくらしてたのかなー」とか、「案外ママとかダディーが幼い頃もこんなかんじだったのかな」って感じにさ。 再発見出来る事も多いよ。
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