2010-11-12

引っ越し つながり直す

久しぶりに引っ越しをした。 久しぶりって言っても、今年4回目の引っ越し。 一体どういうタイムスパンを久しぶりとよぶのか…、個人の感覚が問われますね。

今回の家は90年代初期に倉庫から住居用に改築された、都心のマンション。 街のど真ん中なんだけど、横が大学の大きな大きな公園で、窓からは植物しか見えない。 部屋にいる時は茂りに茂った植物を窓から眺めている。 マンションを出ると、都会。 とても良いコントラスト。

私は多摩美に通っていた間、自分がNZに住んでいた事があった事すら忘れていた。 当時の東京にはイギリスの学校の同窓生や彼らの友達なんかが沢山いたから、自分がイギリスに住んでいた事による縁が日常に溢れていた。 だから、イギリスにいた事の実感はあったんだけど、ウェリントンの事は生活に全く関係なかった。

東京を去り、ウェリントンの大学に戻った始めの頃、東京での自分にはあまり登場しなかった、自分のクオリティーがぐんぐん戻ってくるのを感じた。 特に、高校のときからの友達と遊んでいる時や、街を散歩している時に。 ウェリントンを歩きながら「ああ、私は確実にここで育ったんだ。忘れていたけど、ここで私は長い時間を過ごしていた!」と感慨を受け続けた。 自分の中の東京の生活では使われていなかった感受性のチャンネルが、また外界と繋がり直すのを感じた。 それはとても素晴らしい感覚だった。

今回、引っ越したマンションで私はまた似たような感覚に襲われた。 多分、建築様式や空間の質が実家と似ているからだろう。 実家にいる時の自分の感覚がぐんぐんと戻って来たのだ。 鎌倉の親元での自分と、オークランドにいる自分が重なりあった感じがした。

そして今回は家中、私の空間。 始めてフラットメイト無しの生活。 台所の感じ、お風呂場、化粧台、本棚、全てに私の物だけが溢れている。

荷物を適切な場所に配置した瞬間に、「あらら、こりゃ実家のミニチュア版だ!」とぶったまげた。 元々似ている建築に、自分の持ち物だけを並べましたら、簡易版実家になりました!

ぶったまげたよ。 12歳から、26歳までの間ずーーーーーーーっと、大勢の他人と住んでいたからさ。 こんなにはっきりと他人のスペースと境界線が引かれた、自分だけのプライベートな空間を持った事が無かったんだ。 で、そのクリアな線の内側を始めてはっきりと見たら、そこには見事なミニチュア版の実家があった!

こんなに自分が家を引きずるなら、あがなっても無駄だなと思いましたよ。 しょうがない。 私は一生自分が育った家を「家ってのはこういうもんだ」と無意識で思って、似たような空間を世界中のどこにでも作ってしまうんだろうし、きっと子供にもそういう強烈な刷り込みをするし、私の孫だってきっとそう。 将来自分の孫の家を見て、きっと私は私の親を思い出して泣くだろう。 そういうもんなんだなと思いました。 空気の感じ、布の感じ、明かりの感じ。 「ここちよさ」のディフォルトがはっきりと形づけられてしまっている。

物に関して言うとね、お風呂場に溢れる親と同じ香水たち、同じメーカーのボディーケア用品、化粧台に散らばる親から貰ったアクセサリー、台所にある廉価版の実家の台所道具、寝室の本の感じ、クローゼットの服、作業部屋のMac。 考えてみたら、私はなんでも親と同じメーカーの物を使っている、とことん親離れできていない人間なのだ。 そしてそれらの雑多な置かれ方。 まさに実家と一緒。 プチ日本。 日本製の物はそんなに無いのに、明らかに日本人の家。 すっごいよ、この刷り込み。

「変われないのかもしれない」と強く思った発見でした。 これは小さな絶望だね! そして同時に若干の喜びでもあるよ。 ああ、あたし、きっとそんなに変われない。

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