2011-04-26

グランドな感じ

サンフランシスコのグランドな感じはとても私をわくわくさせた。 元々雄大であったり、壮大な感じの様式は好きな方だ。 好きな方だ…、というよりも、かなり好きだ。 だからサンフランは本当に心にぐっと来た。 モダン建築であっても新古典主義の建築であっても、基本的にとてもダンディーな建築が多くて美しかった。 とても好みだった。








窓にサイン






サンフランシスコの街頭で、窓に直接企業名とかが書かれているのを頻繁に見た。 非常に美しい。 ニュージーランドでは、よっぽど古い弁護士事務所とかぐらいでしか窓に直接書かれた、こういうデコレーションは見ない。 

アメリカではニュージーランドでは見ないフォントが沢山あった。 本当に美しかった。 フォントの多さは、多様性を表す。 フォントは様々な民族の、歴史の、文化の断片。 いろんな所から人がきていればいるほど、数多くのフォントが持ち込まれる。 フランスのフォント、イギリスのフォント、ドイツのフォント、中世のフォント、近代のフォント。 持ち込まれた文化が多い分、使われるフォントも多い。 美しかった。 

「こんなフォント見た事がない!」ってのもいっぱい見たし、「うわ〜本当にこのフォントを普通に使う状況があるのかぁ!」と感動させられる伝統的で美しいフォントもいっぱい見た。

同じ本でも、イギリス版とアメリカ版では大抵表紙が違う。 使われるフォントも変わる。 ニュージーランドで売っている本は大抵イギリス版なので、単純にアメリカには見た事がないフォントが空間に沢山溢れていて面白かった。 とてもとても面白かった。

過換気症候群、超sick

昨日、胃腸が弱り、終止吐き気と戦っていた。 風邪なのかアレルギー反応なのか食あたりなのかもよくわからず、とりあえずぐったりしてた。

胸がムカムカするから、息をいっぱいすっていた。 途中から息苦しい感じがしてきたので、余計に吸った。 そうしたら、ものの見事に過換気症候群になってしまい、NZでの救急車呼び出しデビューをしてしまった。

初めてなったので、自分の手足や口が強烈に痺れるのも、心臓がばくばくするのも、息苦しいのも、冷や汗がでるのも、なんでなのか分からない。 これはビビった。 怖かった。 手がどんどん開けなくなるんだ。 指先がまるまってっちゃうの。 救急車くるまでに「このまま痺れ続けて心臓まで痺れちゃったらどうしよう!」と結構怖かった。

過換気症候群って、呼吸を必要以上に行った結果、必要以上の二酸化炭素を体から吐き出してしまう事から起る。 二酸化炭素が体から足りなくなると、まず息苦しさが生じる。 体は息をこれ以上のペースでする必要がないと制御するので、息がしずらくなるのだそう。 でも知識がない人は「やばい、息がうまく吸えない」と焦り、どんどん激しく呼吸をおこなってしまい、二酸化炭素を吐き出してしまうという悪循環が生じる。(私はこれに完全になった。) 結果、体内の化学成分のバランスが崩れ、動悸、めまい、手足や唇の痺れや朦朧とした感じ、死の恐怖なんかが襲ってくる。

対処法はきわめて単純で、呼吸の回数を自然な量に戻す事。 水を飲む、人と話す、飴をなめるなど、呼吸の回数が減る行為を行うのも有効だし、単純に落ち着いて、意識的に呼吸の回数を減らすってのもありなんだそう。 私の場合は30分ぐらい水飲んだり、人としゃべったり、意識的にゆっくり呼吸をしていたら、体のしびれがとれた。 そうすると、本当にけろっとなおっちゃうの。 緊急治療チームが家に来て、彼らの指示通りに水を飲んだり、彼らと会話をしているだけでも結構体の痺れがとれていくのは分かった。(こっちの救急車のシステムは、救急治療チームが家に来て、家で治療出来る事は家で治療し、病院に連れて行く必要があるときだけ連れて行かれる。 今回は家で治療された)

それにしても、呼吸の回数が乱れて、体内に二酸化炭素が足りなくなっただけなのに、ずいぶん大げさな症状だなと思われるだろう。 対処方法も本当に単純だし、そんなに酷い訳ないと文字面では思う。 でも、実際なってみると驚くほどに恐ろしい症状が出るんだ。 多分二回目だったり、メカニズムが分かっていたらこんなもんだと思えるんだろうけど、初めての場合は結構どんな人でもビビると思う。 そんでビビって、呼吸が荒くなって悪循環でもっと悪くなる。

私は回りに過換気症候群になった事がある人が結構いたから、知識としては知っていたし、救急車をよんだときも、オペレーターの人に、過換気症候群になっているのかもしれないと伝えた。

でもここまで体のコントロールがきかなくなるのかってのはなってみないと分からない。 口では過換気症候群かもと言いながら、頭の片隅では「もしかしたらくも膜下出血とか癌??? 私死ぬ?」となかなかのスリルを味わっていた。 ああ、初めての事ってどうしていつもこうも大げさに心に迫ってくるのでしょう。

会社の上司に連絡したら「私も以前過換気症候群になった時は心臓発作になったんだと勘違いして本当に怖かったわ」と言われた。 みんな、自分の中の“最悪の状態”をとっさに思い浮かべるのだろう。 

過換気症候群って、ニュージーランドでは結構多くの人達がなっていて、話しとしてはよく聞く。 「けろっとなおるけど、なってる最中はすっごい怖いのよぉー。」と人が話していたのを思い出して、本当にその通りだなとなってみてからしみじみと思う。

思い返してみると私はこれまでも規模は違えど、興奮したり不安になったり緊張すると、手足が若干痺れた。 そういう体なんだろう。 つきあってくしかないねー。 

2011-04-24

さよなら石膏像

我が実家にずるずるとずっとあった、美大受験用の石膏像を、今度多摩美のグラフに行く近所の子に譲った。 その子が送ってくれた写真。 こうやって、新しいお家に運ばれていく石膏像達。 あっはっは! ちゃんとシートベルトしている! うける!!




いつまでもこの石膏像が実家にあってもしょうがないので、誰かデッサンをしてくれる人が貰ってくれて本当に良かった。 でも若干寂しいね。 さらば、青春。

この石膏像を貰ってくれた子が、これからすごく良い大学時代を過ごして、すっごいクールなデザインをしてくれると良いな。 頑張れー! 陰ながら新しいオーナーを応援しろ、(元)我が石膏像達よ!

いやー、それにしてもこれから多摩美行くとか本当にうらやましいな。 また行きたいよ私も多摩美。 今思い返しても楽しい気持ちになる。 すっごく良い大学だった。 楽しすぎて、遊びすぎていて、そういえば大学の広報誌の表紙になった事もある。 あはは、でもその広報誌の表紙になる人って中退率すごく高くて私も翌年中退。 あっはっは。 中退上等! でももしなんだかの幸運が訪れてまた多摩美に行く事になったら、今度こそ卒業しよう。 あっはっは。




そうえいば今年の年始に、赤ちゃんが実家に遊びに来たときに、石膏像と並べてみた。 こうやってみると石膏像でかいよねー。

サッチモのWhat a wonderful worldの歌詞の中で、
"I hear babies cry,
I watch them grow,
They'll learn much more,
Than I'll ever know.
And I think to myself,
What a wonderful world"
"赤ちゃんが泣くのが聞こえる
彼らが成長するのを見る
彼らは僕が知り得る事以上の事を学ぶだろう
だから思うんだ
世界ってなんて素敵だろう"って部分がある。

この歌はベトナム戦争を嘆いて作らせた歌らしい。
でも、ただひたすら目の前にある世界の素晴らしさを歌っている。
本当に音楽ってすげえなと思わさせられる一曲。

この赤ちゃんと石膏像の写真を見ると、思わず私もすっごいしかめっ面の笑顔をしながら、「世界ってなんて素敵なんだろう」と思ってしまうわ。


心が隣にある人

クライストチャーチの震災で実家が全壊してしまった友人がいる。 彼女の親と兄妹は住む所を失った。 別の家に暮していた祖母と叔父も家を失ってしまったそう。

その叔父さんは、レスキューチームにいて、まずクライストチャーチの震災のレスキュー、続いて東北に移動し、レスキューを続けた。  本当に頭が上がらない。 

その被災をし実家を失った友人と、日本の震災がおこってから初めて会った夜、彼女は「東北の人達の事を思うと涙が止まらない。 胸が痛い、胸が痛い。」と言いながらオイオイと泣いた。

同じ国民だからとか、同じ言語を話すから、心が隣にある訳ではないのだよなと、彼女を見ていて思った。 多分今回東北の人達の心の隣にいた多くの人達は、世界中の家を失った経験のある人、自然の猛威で家族を失った人達なんだろう。 今きっとその人達は東北の事を思い、比喩ではなく実際に心を痛め泣いているのだろうと思った。

本当に、震災以降、色んな人達に声をかけられて、日本の事を訊ねられた。 口々に、クライストチャーチにいる彼らの親戚や友人の話しをされた。 どうにかして私に、「自分は痛みが分かる。いてもたってもいられないんだ。」と主張してきた。 多くの人達が自分の持っている生き物としての熱が、どうにか東北の人達の心の横に届かないものかと願っていた。 日本人を見たら、話しかけずにはいられないという心理状況になっていた。

町山さんがキラキラの映画解説のコーナーで、彼が会ったアメリカ人の震災に対する反応を話していた。(17分あたりから) 相変わらず町山節たっぷりで面白いんだけど、最後にぽろりと彼が「神様はいると思った」と言っていたのが印象的だった。 そう思わずにはいられないぐらいの被災者へ向けられた愛と、心配と、共感と、祈りを目の前で見たから。 これは海外にいた日本人みんなが感じている事なのではないだろうか。 私も、本当に、圧倒的なものを感じた。

いつか被災地の方々に、なんだかの形で世界中で彼らに向けられた言葉と愛と心配と祈りが届けば良いと本当に思う。 何年か経ってからでも、何十年経った後でもいいから届いてほしい。 この祈りが心を温めて、一瞬一瞬を支えるささやかな杖になれば良いのにと思う。

多分、それは海外で直接その思いを受け取ったものが、なんだかの形で記録をしたり、日本語の文章にしたりして、どこか目につく場所に置いておかなくてはいけないんだろう。

クライストチャーチの震災の時は私はアメリカにいた。 その時も沢山の言葉をかけられた。 近くにいるから、体が隣にあるから出来る事ってある。 でも距離が遠くて余裕があるから、出来る事や思える思いもあるのだよなぁと日々実感する。

2011-04-22

雑誌

雑誌を作っています。 もうすぐ出来ます。 楽しみ!
その際は、皆様、ガッツリ買ってくださいね。

2011-04-19

 まず、クライストチャーチが被災しその直後に今度は日本が被災した。 そしてそれ以来日本は、ずっと被災し続けている。

この一連の出来事は、心境的に、結構私を前後不覚にさせた。 右頬を平手打ちされた直後に、左頬を今度はハンマーで殴られたような気分になった。 ついでに、原発問題で、頭の上にタライが落ちて来た感じがした。 完全に混乱してしまった。 目の前にチカチカ星が見えた。

それ以来、私が私の生活を送る事で傷つく人や、損なわれる人なんていない筈なのに、つい最近まで気持ちに余裕をもったり、落ち着いたり、何かを楽しむ事に強い罪悪感と、嫌悪感があった。 とても混乱していた。

結局のところ、私は被災していない。 非常に幸福な立場にいる。 なのにこうも取り乱した。

いつも左耳から、クライストチャーチのニュースが入り、右耳から日本のニュースが入る。 それだけで私を取り乱すには十分だった。

最初は、失われた人命の数と被害の規模に圧倒され、猛烈に悲しかった。 自分を育ててくれた社会の方々の死が、ただ悲しかった。 明るい気持ちになんてなれなかった。 出来る事をしようと思い、親しい人達に手紙を書いたり、職場で日本の為の昼食会を開いたりして義援金を呼びかけた。 チャリティーサイトの為の翻訳をしたり、直接被災地に救援物資が送れるようになってからは、物を送った。

ただただ悲しかった時期は、喪中なのだから仕方がないと思っていた。 圧倒されて当たり前だ。 悲しくて当たり前だ。 自分を生み出してくれて、育ててくれた社会にこれだけの悲劇が襲ったのだ。 私を育てた社会の人々が失われたのだ。 私の属する社会の人達が愛する人を失い悲しんでいるのだ。 悲しくない訳がない。 自分の中で、どくどくと流れる悲しみは、当然のものだと思えた。 悲しかったけど、その悲しみには納得していた。

二、三週間前から、今度は、名前も知らない変な感情の渦に自分が飛び込んでいった感じがする。 余裕をあえて自分から奪っていっていた。 勿論、そもそも感情に余裕がなかったってのもある。 でも私は多分、実際よりも多めに余裕を失っていたし、私が焦る必要なんてないのに、終止焦っていた。 被災地の状況に焦り、原発の事でも焦った。 

焦っても目の前には日常の生活があり、焦りをどう消化していいのか分からなく、ただ家の中で一人で焦り、アマゾンの被災地のウィッシュリストで買える物が無くなると、次は生活から精神的余裕を奪って、そして疲れて、やっと寝れた。 多分、私は積極的に焦り、余裕を失っていた。 自分がそうしたくてそうしているとしか思えない焦りと余裕のなさだった。 

こういう感情をなんと読んだらいいのかは分からない。 焦る事で、被災した方々の疑似体験をしようとしているのだろうか。 そんな事して一体何になるのだと思うのだけど、止める事が出来なかった。 

全ては悲しみから来ているのだと思う。 「昨日が失われた事が悲しい」という感情が、地震の起った日から続いている。 特に、日本の震災に対しては、喪失感が大きい。 パラレルワールドに投げ込まれてしまったような気持ちになってしまう事がある。 現実で起っている事のスケールに、自分自身がついていけず、処理しきれていない。(最も、この規模の悲劇にちゃきちゃきと対応できる人がいるのなら会ってみたいものだが) 文字で書くと、「こいつ大丈夫か? ただの馬鹿なんじゃないか?」と自分に対して驚いてしまうが、正直な感想はそうなのだ。 私は未だに起った事を受け入れていない。 そんな事がある筈がないと、どこかで思ってしまっている。 それが不必要な焦燥感をうんでいて、変な結果として自分から余裕を奪っている。

まだ震災前と、震災後がうまくつながっていないのだ。

桜 その2













2011-04-17



年末の写真。 こっちは年末が春。 日本桜が咲いていると聞いて、写真を引っ張り出して来た。 写真を見ながら一人でお花見。