2011-01-31

Black Swan

ナタリーポートマンのBlack Swanを見て来た。

文句無しの傑作。 本当に良かった。

圧迫感と圧倒感がうりの映画のなかで、
絶対に私の見た中では一番良かった映画。

ナタリーポートマン、凄すぎる。 

多分、彼女が主役を演じたってのも、映画に深みを持たせる為にとても重要だったんだと思う。

本当に良かった!

2011-01-29

No one belong here more than you

No one belong here more than youだなんて。 なんて、切羽詰まって切実な言葉なんだろう。

「あなた以上に、ここに属する人っていないのに」って、もう、言葉の並びから、せっつなーーーい! 切羽詰まってるのに、どっか他人事で、まさに「焦げそうな感じの人類」の使う言葉。

日本の友人に「この本読んでみなよ」と貸してもらった本、"No one belong here more than you/いちばんここに似合う人"に出てくる言葉たちが、あまりにも身近な感じなので、読んでいて人ごとじゃなかった。 こんなに自分も使う言葉ばっかりが出てくる本がある事自体に驚きだ。



この本を貸してくれた子とかと二人で話している時に出てくる言葉を、紙に書いて、袋に入れて、福引きみたいに引き出して、それを順番に並べたんじゃないかと思えるぐらいの言葉の既視感。

でも言葉は身近なんだけど、紡がれていく物語は、結構遠くにあり、「隣人の暴走を横目で見ている自分」みたいな気分になる。 その違和感が面白い。 「私なら、こうはしないなぁ」って事を登場人物がどんどんやる。 いやー、あなた、こんがらがってますねぇ、焦がされていますねぇと、しみじみする。

この本の中に出てくるような行動様式が「分かる分かる分かる! 思わずやっちゃう!」みたいな人って、よっぽど孤独な人だよ。

しかし端から見たら私もこんな感じなのかなぁ。 多分、そうなんだろうなぁ。












多分、本当はもっと言いたい事があるけど、まだよくわかんない。

Ah Xian

Ah Xianという、オーストラリアに移住した中華系の作家の作品が好きだ。




2011-01-27

鉄平

風邪引いているので超内向きです。

一応NZに住んでいるとされているが、布団の中で日本語で考え、日本語の本を読み、日本語のサイトを見ている。 完全に日本に向いています。

まだNZには一歩も出てないよ。 

窓から眺めるだけ。

一応窓は開けておいてるけどね。

今のところ一日の80%ぐらいは寝ている。

のこりはずっと寝ぼけている。

寝ぼけて起きている間はひたすら"鉄平の功績"を読んでいるよ。

鉄平は私が日本のMTVを見ていた頃のVJで、かっこいいの権化なんだ。

鉄平、かっこいいーーー!

もう一回言うよ、鉄平かっこいいー!

ああ、なんてかっこいいんでしょう、鉄平。

以前、父が「あんなはジャニーズとかアイドルとかに興味を持たなかったねぇ」と残念そうにつぶやいていたことがあった。 うん、父さん。 確かにそうだ。 でもだからって私がかっこいい人に興味が無いとかってわけじゃなかったんだ。 

私には鉄平がいたんだ! 

鉄平のブチギレた感じと正気の素晴らしいバランス感覚、

うざい感じになってもおかしくないのに、終始爽やかな後味、

鉄平、奇跡☆

鉄平のささやき戦術とか、 聞きながら笑いすぎて一人喘息。

はぁ、風邪引いてるときはかっこいい人の事だけを考えて力を蓄えなくちゃね。

鉄平、かっこいい!

鉄平の功績は偉大だよ。

鉄平の受けている癌治療が自分の想像していたのと違って、自分の無知を実感した。

いろんな闘病があるんだね。

がんばれ。

I love you, 鉄平.

鉄平のブログ読み終わったら、次はBOOのブログだ。

BOOの文章って本当に本人がしゃべってるのと全く同じ感じでうける!


HISASHIがDJしている姿に対して、

「カッコ良すぎるでしょ♪
綺麗だったなぁ~(^-^)」
って、結局どっちよ!
さすがBOO!

うふふ、内向き過ぎて、
きっとニッポン育ちの人達にもついていけない話題になってしまっているわね。

うふふ、そろそろまた寝るわ。
おやすみ。

2011-01-26

揉まれる

御見舞いにきてくれた友人らに、お腹や太ももを揉まれながら「スシー、サシミー、テッパンヤキー、オコノミヤーキー、タコヤーキー、ラァメン♪」と歌われる。

私のお腹や太ももには日本食がびっしり詰まっているらしい。 そうだ、詰まってんぞ。 うらやましいだろ。

「マグロの炙り」とかだって入ってるんだぞ。 だてに肥えてないぞ。 うらやましいだろ、ざまあみろと、一人いきり立っているが、いかんせん風邪引いて脱力状態なので、今はただ揉まれるがまま。 

ベットにぐったりとねっころがりながら、脂肪をつままれ、「スシー、サシミー♪」って歌われている。

ぶるっときたら

 飛行機の中でぶるっときて、これはもしやと心配していた。 そうしたら案の定、NZの地に着いた途端に大風邪をひいてしまった。

久々の大物。 昨日今日と、全く起きれていない。 外は真夏。 気候に体調をあわせたり、夏を楽しんだりする余裕なんて全くなくて、一人で鬱々と寝ております。 一人で日本の冬を引きずってるわ。 昨日、今日と、あたしの人生暗かった。

昨日はそれでも仕事に行かなくちゃいけなかったので、這って行った。 こんがりと日焼けした会社のみんなに「あけましておめでとう、って、その顔色どうしたの?!」 と恐ろしがられ、「っっ、これはあんなのゴーストなのかしら…?」と本体かどうかすら疑われた。 本体でござる。

夜、一人で風邪の段階について考えていた。
多分風邪は以下の用に別れていると思う。

ステージ1 ちょっと怠い
ステージ2 風邪を引いている気がするけど、精神力で否定出来る
ステージ3 三秒に一回ぐらい「もしかしてあたし風邪引いてる?」と疑いはじめる そしてその度に否定する 夢見が悪くなる
ステージ4 風邪を引いていると認める 認めた途端に足下が崩れた感じで見事に症状が明るみに出る ここら辺から唸るようになる 悪夢しか見ない
ステージ5 常に唸る 獣のごとし 一人で布団の中でめそめそ泣く 親の名前を寝言で呼ぶようになる 実家にいるときは、ここで親の涙をさそう 夢と現実の違いが分からなくなる
ステージ6 黙る ここまできたらインフルエンザかノロを疑う

今回は、ステージ3と4を行ったり来たりし、そして夜中に若干5に入った。 ふぅ…。 恐ろしい恐ろしい。 今は風邪の復路って感じ。 後ちょっとでステージ2に戻れるんじゃないかな。 健康の大手町はすぐそこ。 頑張れ私、襷を渡せ!

上司は結構ヒッピーなのだと思う。 飛行機でひいた風邪は、「昼間芝生の上を裸足で数回ジャンプするとなおる。 自分が地に足が着いた状態だと体に教えてあげるのが重要」と言ってきた。 なんか、気持ちは分かる。 確かにね。 効きそう。 でも向かいの公園に行くのすらしんどいのだけれど、無理して芝生を踏みに行くべき? 誰か…、私をおぶって向かいの公園に連れて行ってくれないかしら。

はぁ…、早く体の中が「元気いっぱい夏の私」に入れ替わらないかなぁ。  高校大学と冬から冬に移動していたから、夏が無かった。 仕事を始めて始めて得たものが「夏」。 暑い地球。 全然慣れない。 朦朧とする。

はぁ…、信じられない。 この暑さと、光のまぶしさと、女の子達の露出度。 なんで突然地上の楽園? でも私、性根が悪いからか、この楽園辛いんだけど…! ううう、私、楽園にて病んでおる。

2011-01-25

ツウな人

タイのデザイン業界で、ツウな感じな男の子たちが、“たま”のさよなら人類を聴いていた。

よその国のちょっと風変わりな音楽を聴くのって、ツウな人になるためには必須なのかもしれないね。

2011-01-23

どこにいるかでがらっと変わっちゃう

役回りが"がらっと変わっちゃう"って事は日常でよくおこる。 その切り替えのとき、ちょっぴり切ながっちゃたりする。

日本にいるときの自分の役回りと、NZにいるときのそれは結構違う。

例えば、日本にいるときの私は、「日本語を母国語として日常的にそれを喋る、その国で一番大きな民族に属する若い女性」だけどNZにいるときは「英語を母国語としないけど、日常的には英語しか使用しない、マイノリティーの若い女性」ってなる。

立場ががらっと変わるから、結構違う立ち回りを環境から求められる。

他の例だと、日本にいると、環境が許してくれているから往々にして「美術やらなんやら自分の好きな話しかしない人」でいられるけど、NZでだと私は何よりも「工業デザインを通じて会社に利益を持ち運び、雇用を作り、何よりもエンドユーザーに良い経験と商品を届ける仕事をしている人」でいる事になる。 この役回りは全然違う。

後は「家族の中にいる子供」と「家族を作っている大人」っていう役割の差とかもある。

なんか結構がらっと役回りが変わるんだよね、自分がどこにいるかによって。

たまにそれはほとんど暴力的なまでの役割の変化だったりする。 救済の場合もある。 

どちらにしろ私は結構マッチョなので、是非、ある程度、"あれ? 環境が変わると、自分って自分が思っていたような自分じゃいられない?!"っていう衝撃をどんな人にも受けてもらいたいなと思う。 そういう感覚が身にしみている人は好きだ。 逆にそういう感覚が全く分からない人/そういう経験をしたくないから身を動かさない人にはあまり興味が持てない。

そう、だから「エンジョイしなよ、自分」と役割を変化させる事を躊躇う自分に声をかける。 乗り越えなよとも思う。 そんな些末な事気にしないで、乗り越えてもっと自由にいなよってさ。

コントラストで、空港に一人でいるときとか、ウルトラハイな気分が味わえるし、良いじゃん! 良いじゃん!

さよならマーチ

ちいさいとき、「おかあさんといっしょ」が結構好きだった。 その中で一番、一番好きだったのは、「にこにこぷん」と最後の最後に流れる「さよならマーチ」だった。 「さよならマーチ」にはいつもある種のカタルシスを感じていた。 「ぞうさんのあくび」が始まると、そろそろ「さよならマーチ」くるぞと、ゾクゾクワクワクした。 ヨーロッパの童話に出てくる、笛を吹きながら子供たちを誘拐する話しなんかを思い出していた。 大きなじゃじゃまるとぴっころの作り出すゲートを子供たちがが新宿駅の改札口みたいな混みあいをしながら通って行くところがとても大白いと思っていた。 しかも途中で捕まっちゃったりするし。 でも、とっても親密そうなの!!! 面白いねー。

下の動画をずっと見ていると「さよならマーチ」が流れるから、懐かしい気持ちになりたい人は是非見て! 





最近、あまりにもNZにかえりたくなくて、突然頭の中で「さよならマーチ」がなり始めた。 ♪かえりたくなーい、かえりたくなーい、かえりたくないけど、さよならバーイバイ♪ってさ。本当に帰国したくなくてふてくされ子ちゃんになっていたからさ心の原風景みたいなのが今の日常に突然溢れ出してきたんだ。

どうしてこうも帰国したくなかったのか、自分でもいまいちわからない。  別にこれが今生の別れでもないし、日本に遊びに来たかったらまた来ればいいだけの話だし。 

思えば大学生のころも、卒業するのがすごく切なかった。 周りの人に「これからも楽しいことは沢山あるよ!」とか、「良いこといっぱいおこるよ!」って言われても、「そりゃそうだけど、でも全く一緒ではないじゃん。 今日と同じ日はもう来ないじゃん」とスネスネに拗ねていた。 

多分私は変化に弱い。 だからどこか胸の中で「今と同じような形には二度とならないだろう」と予感を持っていると、とたんにものすごい郷愁に襲われてしまうのだ。 変化に弱いのに、変化したがるから、今を惜しんで、勝手に壮絶に切なくなってしまう。 

「次会う時、私は全く変わっちゃっているかもしれない」って思うから、切なくなる。

大学にいた期間、私は内面が結構変化した。 だから仕事を始めたらまた同じような強烈さで変化が自分におこるだろうと思っていた。 そして実際おこった。 古い友達には「変わらないねー!」と言われるけど、本人的には結構成長や変化がある。 だから、なんか今日が切ないのだ。 次に会う時は、私たちは笑っちゃうぐらいに別人になっていたりするのだから。 今がずっと続けば良いのに。 でも強烈に変化できたら良いのに。 環境を変える度に、一つの願いはかなって、もう一つの願いはかなわなくて切ない。

でも私は手放す感じも結構好きだ。 自由な感じがするから。 なので、イミグレ入るまでは、親の前でめそめそめそめそして、ほろほろ泣いたりするけど、そこから飛行機の搭乗時間までは一人でかなりハイになっている。

もしかしたら、出国窓口を通って、空港で飛行機を待っている時間が私の一番好きな時間なのかもしれないとすら思う。

一人で、どこの国にもいない気持ちになれてすごく楽しい。 日本でのの"友達のアンナ"でも"娘のアンナ"でも、NZでの"デザイナーのアンナ"でも"ガールフレンドのアンナ"でもなくて、結構強烈な自由を感じる。 この時の自分は、いつでも変わらない気がする。 自分のための自分が戻ってくる。

実は今も空港にいて(飛行機が遅れている)、やけにスカッとした気分でいるんだ。 「でも私は手放す感じも結構好きだ。」って部分から空港で書き始めた。 こんなに簡単に心境が変化するのが恐ろしいわ! そりゃ、「変化が怖い」って思うよね。 だって、私、日本のイミグレーション通過するか否かですらこんなに変わるんだもん。

あっはっは。



おまけ:
今でも、じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろりのことは、良い友達だと思ってるよ。 途中でドレミファ・どーなっつ!に変わった際、どーなっつ島の人達には違和感あった。 なんか、どーなっつ島の奴らはチャラい。 あと、ポンキッキも若干軽薄なところがあるなと思っていた。 うん、じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろりが好きだ。




貴公子

わがままで、贅沢で、自己中心的で、自己顕示欲と表現欲に溢れた友人がいる。

彼と接していると、「ああ、この人はなんたる貴公子なんだろう」としみじみ思う。

若干愛おしく、若干めんどくさい人だ。

お育ちがとても良いので、鞄は持ってくれるし、私が泣くと、自分も泣きそうな顔をして一生懸命顔を拭いてくれる。 遊んでほしいときはいつも私の背後にきて、肩をもんだり、背中をさすったりして「机から離れたら、もっとバキバキに背中もんだあげるよ!」と無邪気に言う。 女の子に優しくしたり、女の子の体を触るのがとても好きだし、それをすごく上手にやる人なのだ。 エロくなく、ただ心地よい、友人への触り方を知っている。

でも同時に小さい時から周囲のアテンションの全てをかっさらって生きて来たので、こっちにくれる優しさよりも、俄然多い優しさをこっちから期待するし、必要とする。 愛情とアテンションのメンテナンス費がとてもかかる人なのだ。 めんどくさい!!

彼は旅行中や、実家があるタイ王国にいる間、私にいっさい連絡を取ってこない。 曰く「僕はタイに愛されているから。 でもNZからは愛されてないんだもん」。

そんな事を思うなら、是非己を振り返って、NZにも愛されるような働きかけをするべきなんじゃないかと淡い期待をしてしまう庶民な私。 勿論、愛は当然与えられるべきであり、働きかけるものではないと思ってらっしゃる高貴な彼にはそんな事は通じない。 

なので退屈になったり愛が必要になると私に電話をしてくる。 

結果、NZに着いたその日から、じゃんじゃん電話やらメールやらをしてくる。 「寂しい、退屈。 余はアテンションを所望する!」ってさ。 そして終止自分の話しをする。 私から面白い話しがあるなんて期待も想像もしていないし、自分の事で心中溢れかえっちゃってるから仕方がない。 私も別に一日に何個も報告するようなイベントは人生におこらないし、彼よりかは精神が安定しているので、伝えるべきドラマもない。 なので彼の愚痴やら野心やら妄想やら願望やらを聞く事になる。 ただ、聞く。 そして誉める。 「えらいね、貴公子! 言うことがそんなにあるなんてえらいよ!」って。

彼は先日、「そろそろアンナはかえってくるべきだ」と思い私の携帯にテキストメッセージを送った。 「お前様、そろそろ戻って来ているんだろうな?」と。

まだ日本にいるので、すぐにはそのテキストは届かなかった。 私から十秒以内に返事がなかった事に業を煮やした彼は、私に電話をしてきた。 「君はどこにいるのだっっ!」と。

「いっぱい話す事があるのに! どこにいるの! 早く帰って来て!」と言われながら、はいはいとのらりくらり適当な返事をしていたら、彼からのテキストメッセージがやっと携帯に届いた。

「あ、今テキストが海を越えて来たよ。」と言ったら、すごく甘くて優しい声で「ああ、僕がテキストならなって思うよ。」と返された。 「早く会いたいもん」ってさ。

あはは、この無邪気な可愛さがあるから、まだつきあっていけるんだなと愛おしい気持ちになった。 彼の貴公子っぷりには腹もたつけど、ストレートな愛情表現にはいつも温かい気持ちにさせられる。

勿論そう思った直後から、彼の「俺の猛々しくも神々しい願望と、それを達成するためへの栄光に包まれた偉大なる予定表」に関するプレゼンが始めるので、私は「庶民視点からの、ルサンチマンも混ざった乾いた突っ込み」をのらりくらりと返す、いつもの堂々巡りが始まるんだけどさ。

そして最後にちょっと「この子どっかに引っ越すつもりなのかな?」っていう雰囲気をにおわせた。 そして「でもまだアンナから去ってかないよ、安心して。」と気を使われた。 あはは、ちょっとは去ってくれて良いよと思いながら、ただ笑っていたら、「うん、もしかしたら永遠にアンナを置いていかないかも、去らないかも!」と愛に溢れた発言を恩寵するはめになった。 いやいやいやいやいやいや、ちょっとぐらいは去ってくれて全然大丈夫だから気を使わないで!と内心思いつつ、でもそれを言ったら、一週間は、ぐちぐちぐちぐちいかに自分が傷ついたかを言われると思い、「ありがとう、うれしいよ。 愛しているよ。」と言って、ぶちっと電話を切った次第である。

貴公子と友達だと、こっちは老けるなと最近よく思う。 私は結構彼のバアヤだ。 世の中の長女や、親御さん、そしてめんどくさい部下のいる上司達、そんなみんなに優しくしたいと最近は特に思います。

2011-01-22

ヤノマミ


昨日今日と集中してNHK出版から出ている、「ヤノマミ」を読んだ。 これはアマゾンの奥地で、1万年に渡り独自の生活と文化を続けて来ている、ヤノマミとよばれる人達についてのルポタージュ本。 NHKのディレクターが150日間彼らの居住地に生活し、ドキュメンタリーと本にまとめあげた。 とても面白いので是非、チャンスがある人には読んでもらいたい!

ドキュメンタリーの方は去年見ていた。 本もとても良いと聞いていたので今回読んだのだけど、勧められていた通りにやはりとても面白かった。 読み出したら止まらない本。 とても読みやすいから二日で読めた。

それで読みながら、私はなんでこの本の内容に引きつけられるんだろうなぁって今日一日考えていた。 

まずこの本の中で説明されるヤノマミの人達の文化や信仰の構造の中に、自分の知っている世界のそれと重なる、どこか普遍的なところが見えてくるから面白いのかなとも思った。 読んでいると、大きな気持ちになれるし、視野がぐっと広がる。 不思議なもので、どうしてだか人間讃歌が胸にわき起こる。 そんなの滅多に感じられないので、得難い体験として面白かった。

同時にこういうのって、作者の持ち合わせている感受性や理解のフレームの中に収まった事柄が記録される。 だから私がこの本を読んでまず感じた、人類の普遍性らしき事柄は、“日本人/近代人の目線”の範疇内に収まってしまったが故に感じた誤解かもしれないなとも思う。 自分が作者の考えた事に共感しているのか、ヤノマミの文化に共感しているのかは、多分永久に分からない。 そういう事を意識させてくれる本は読んでいて面白い。

また相手の文化が独特だから、自分の文化やら信仰やらの独特さにも気づかさせられる。 例えば「近代医療がない状況でも自分は今自分が信じている事を信じているだろうか」と考えると、大概の場合答えはノーだ。 近代的なバースコントロールがあるから、今私が当然に信じている立場が保証されている感は否めない。 そういうのを考えるきっかけを与えてもらえるのも面白い。





読み終わった後、私の中には、哀しみや、過去に対する喪の気持ちも胸にあふれていた。 日本の事とか、マオリの事とか、ポリネシアの島々の事とか、自分の身近にある、文明とのコンフレクトの事をおもったからだ。

日本は昔鎖国をしていたと言っても、なんだかんだ言って他所の国の事は知っていた。 独自の文化も持っているけど、同時に東アジアの中の一地方であったんだろうと思う。 だからヤノマミとは違う。 それでも自分達と違う言語をしゃべり、違う自然観/世界観を持った社会と出会い調和していくためには多大な犠牲と、困難な挑戦があった。 自分自身の体験からもそう思う。

また非常に身近なケースとして、文明化された後の、マオリの人達のヨーロッパ文明への葛藤と失敗と努力が、頭によぎる。

ヤノマミとのコンテクストは違うし、独自具合も違う。 でも、文明っていうとてつもなく大きな流れに飲み込まれている事への恐怖と、その後の葛藤は、ある程度推測できる。 なぜなら規模はどうであれ、私たちは、よっぽど恵まれた環境にいる人以外、かなり望んでもいないのに強者の文明に飲み込まれ、巻き込まされているんじゃないかと思うから。 そんな中で、心はの一部は通り過ぎていってしまった時間への喪に捧げられていて、いつもどこか少し哀しい。

いつかヤノマミの人達は近代文明に強烈に飲み込まれなくてはいけないのだろう。 長い目で見たら、それで仕方がないと思える。 

でも一人一人の人生はかけがえがなく、取り替えのきかないものだから、仕方ないなんて言っていられなかったりもする。 だからみんな幸せにならなくちゃいけない。

その時に既に飲み込まれた人達に何ができるだろうかと考えた。 受け入れる事、理解する事、相手の文化背景に興味を持つ事、偏見を持たない事、寛容である事、協力的である事、尊重する事、一緒に悲しんであげる事…。 先に波にのまれた側としてやるべき事は山のようにあるように思える。 新しい幸せに、過去からの幸せが上手くリンクすれば良いよなと思う。

まとまりがなくなっちゃったんだけど…、ヤノマミ、とても面白いから読んでみて!

2011-01-18

女の人

生物学的に女に産まれたからって、別に自動的に"女"の役割にしっくりこれる訳じゃない。

家族が抱えている女性観、学校で与えられる女性観、友達同士での女性観。 日本いる女性達、イギリスの女性達、NZの女性達。 全部見事にてんでばらばらに違うから結構こんがらがる。 どっかの社交の輪の中での"守ってないと女と思われないコード"を遵守すると、他の社交の輪の中では完全なる"奇人"になったりって多い。

2011-01-17

アンティー街道

日本に帰って来て何が楽しいって、お友達のお子様方と遊ぶのが最高に楽しい! アンティー街道まっしぐらだよ。

思わず、その子達の名前をgoogleしたくなる。 ファンだから。 google imageで写真とかいっぱい出てこないかなって。 写真見て、一人でにやにやしたいなって。 でも勿論出てこない。

googleに載っていない事ってあるのだよね。 この歓びは、直接会って遊ばないと得れない! そんな当然の事を思い出させてくれる、友人のお子様方。

今日は、友達と、彼女の1歳3ヶ月の娘さんと一緒に遊んで来た。

その子がもーーーー、本当に、ゴージャス! ゴージャスな存在! 笑顔が本当に大きいんだ。 顔の半分が口になっちゃうってぐらいに、大きく口を開けて笑顔をするの。

コミュニケーションが上手な子で、まだしゃべれないんだけど、ベーシックな感情は十分回りに伝える事ができる。 "コミュニケートしよう"っていう意思をとっても持ってる。 "私とおしゃべりしましょ"って、その子の方から誘って来てくれる感じ。 ポジティブな感情を、いっぱい伝えてくれるんだ。 いやはや、そんなの、大人でもできない人いっぱいいるのに! 「君すごい!」って終止思ったよ。

そこの家族は、ベビーサインを使っているんだけど、だからなのかな、まだしゃべれないのに、その子自身に既に「私の言っている事をあなたは分かってくれる」っていう強い自信があるみたいなんだよね。 例えば、顔面表情なんかも「この顔は、この感情を表現するんだ!」ってのをきちんと分かって使っている感じなの。 それってコミュニケーションの基礎だよね。 すごい!

友達曰く、産まれたときからいっぱい話しかけて、いっぱい笑顔を見せていたそう。 一歳になった今その子は世界に向けて開けた存在になっている。 まるで最初の一年の育児って、種をその子の中にいっぱい植えるみたいな作業なんだなーと思った。 見事に花開いていた。 その子の顔には大きな大きな気持ちのいい笑顔! ゴージャス!

この笑顔を出せるだけで、この子は"強い"し、"大きな存在に守られて祝福される"って思わさせられた。 道が切り開かれていくよ。 人の目を見て、大きな笑顔を出せる事って素晴らしい。

その子とはみなとみらいのキドキドで遊んだんだ。 楽しかったー! あそこは大人も子供も一緒に楽しんで遊ぶ事ができる。 少なくとも私は今回の日本滞在で一番面白かった場所がキドキド。 本当に、皆様、お子様がいらっしゃらない場合は、子供のいる友人や近所の人や親戚を誘って、一緒に行ってきてください。 お子様が一緒にいないと入れないので、がんばって一緒に行ってくれる子供を探してくれ! キドキドは本当に楽しい!

子供に遊んでもらうってのは、本当に楽しいですね。 こんなに楽しい遊び相手はいないと、今私はアンティー街道を喜んでつき進んでおります。

おまけ: その友人はご夫婦ともにアメリカ人。 すごいコスモポリタンなので、家にどでかいポップコーンメーカーがある事と、日本で正月にまでピザ食べてた事以外は、普段は別にそこまでアメリカンだなと思う事は無い。 


ただ今日、この人たちは本当に生粋のアメリカ人なのだなと大笑いした事があった。 誕生日がちょうどハロウィンと重なるので、その子の一歳の誕生日パーティーとハロウィンパーティーをミックスして行ったそう。 写真を見せてくれたんだけど、彼らの仮装は本当にお見事だった。 父さんロビン、母さんバットマン、娘ジョーカー(ヒースレジャー版)。 その子、完全にジョーカーになっていた。 ヒース甦ったのかと思った。 ばっちりあの化粧をされていた。 アメリカの方々の、あの化けたとしか言いようがない仮装力は、一歳児の時からトレーニングされているのかと、わたくし、ぶったまげました。

2011-01-15

見る

いろいろとたまっていたデザイン系の雑誌やらウェブサイトを見た。

とても気持ちのいい経験だった。

三週間ぐらい視覚的な刺激から離れてみて、改めてただ奇麗なだけのプロダクトの力を感じた。 

奇麗であったり、美しい物は、なぜだろう、間違えなく心に良い。

仕事の最中は、"こんなんただ神経質なだけだ"とか、"見栄の権化だ"とうんざりする事がある。 日本に帰ってくる前が、そういった悪態や愚痴のピークで、日本に帰って来てから、全く視覚的な刺激を求めなかった。 なんか、物の持っている圧力に、自分が負けそうだった。

たった三週間離れてみただけなのだけど、不思議なもので、最後は"圧力につぶされてしまう…"と思っていた魅力の強い製品に、今度はかなり心を軽くしてもらえた。

デザインに人を幸せにする力なんて無いんじゃないだろうかとどっかで思ってしまっていたけれども、こうも簡単に自分自身が幸せにさせられる。

悪くないじゃん! 全然悪くないじゃんと、とても気分よくなった。

少なくとも私にとってはデザインとか、美術とかが世界に私を開いてくれる、かけがえのない文化なのだと実感し直した。

2011-01-12

ハーちゃんといっしょ その1

 大学時代の親友夫婦が赤ちゃんを連れて我が家に遊びに来てくれた。 頼もーって感じに。 赤ちゃんはハーちゃんという、六ヶ月弱の男の子。

迎え撃つはもう一人の大学時代の親友ミズホと、私と我が親。

赤ちゃんはいいにおいがして、柔らかくて、とっても可愛かった!

七里ケ浜の海が一望できるカフェでみんなでご飯を食べて、海辺を散歩して、一応大仏を見て、八幡宮に行ってってトロントロンと遊んだ。

ハーちゃんが生まれて以来、私たちの遊びの中心はハーちゃん! とりあえず、誰も自分の話をしない。 みんな、ひたすらハーちゃんの話をしている。 完全に惑わされている、私たち。 だってハーちゃん、イケイケなんだもん。

それにしても、結構面白かったわよ! 年齢的なものなのかな? ハーちゃんが興味を持つ物がとっても特徴的なの!

まず、ハーちゃんが、ル・コルビジュエのシェーズロングに座ったときに、とってもとっても喜んだのに驚いた。 肌に触れる部分の素材に大興奮。 皮の感じがとっても良かったみたい。 あと角度もちょうど良かったんだろうな。 どうやら赤ちゃんは、抽象的な物がお好きな様子。 同じテクスチャのものがずーっと続くような触覚が好きな様子。  

いろんな情報をごちゃごちゃと一気にインプットするよりも、一つを十分にインプットする感じが、快感につながる様子。 皮を触りまくって、キャッキャってなっててかわいかった! コルビジュエ大先生偉大だなと思いました。

確かに、大人でも、自分の体よりずーっと大きなサイズのシェーズロングがあったら、その素材感に結構うっとりすると思うんだよね。

家の居間にこの椅子があるので大人たちがご飯を食べている間に、ハーちゃんにシェーズロングに座ってもらっていたんだけど、本当にご機嫌だった! もちろん転がり落ちる可能性大有りなので常に見張っている必要がありますが、ここまで喜ぶなんて、コルビジュエも満足だと思うよ。




そしてもう一つ、ハーちゃんの興味を引いていたのが、埴輪! 意外だよねー。 でもこれも結構コルビジュエのシェーズロングを喜んだのと同じ理由なんじゃないかなと思うんだよ。

数年前、私の永遠のボーイフレンド、グレッグが日本に来ていたとき、一緒に東京国立博物館に行ったんだ。 で、私が埴輪とか土偶とか土器とかがたまらなく美しく思えて好きなのだと言っていたら、ミュージアムショップで埴輪(犬型)のぬいぐるみを買ってくれたの。




で、朝ミズホがハーちゃんをあやしているときに、このぬいぐるみを使っていたんだけど、ハーちゃんこの時も大ハッスル。 やっぱりこれも形がシンプルで、手触りが一本調子。 そして、顔も黒と茶色のコントラストがはっきりしているから、快感刺激としてずばっとハーちゃんの心に響いたのかな?

手触りが面白いものとか、ずーっとにぎにぎしていたりもしているものねー。

いやー、古代と古典の物品の持つ怪力に、ハーちゃん通じて触れ直したって感じね。 恐れ入った、埴輪にもコルビジュエにも。

なので、埴輪(犬型)はハーちゃんの家来になっていただく事にして、献上させていただいた。 グレッグも草葉の陰で喜んでいるだろう。 はに丸の21世紀版として、ハーちゃんには活躍してもらいたいものよ。

ハーちゃんのテディベアは、私が見つけるのだとNZで必死に探して、えらい具象的な白熊(ものすごく獣っぽくてかわいい)を送ったけど、本当は家に転がっていた埴輪で良かったのね。 答えは、そこにあったのだな…。

それにしても「俺のテディベアは、埴輪(犬型)。」って、渋くて良いよね。

2011-01-04

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いします。

今年はゆっくりとした年初めです。 学生の頃はお正月はアルバイトをしていたので、お正月にゴロゴロしていると、「あぁ私は大人になったのだなぁ」としみじみします。

私の住んでいる鎌倉は、「海、山、神社仏閣、幕府」が売りの街です。 春は山の桜、夏は海の店、秋は山の紅葉関連で荒稼ぎをしています。 それらも素晴らしいですが、一年の主役、「今稼ぎまっせ、一年分っっ!」と鼻息荒くなるシーズンは正月。 鎌倉全体が、初詣にきた人たちに対して大ハッスル。 神社なんてやばいやばい。 神主たち、走る、走る、走る。 鎌倉が地元の子たちも神社でバイトをして、神主たちと一緒に走る、走る、走る。 神主たちは、年明けてからが走り時ですね。 坊さんたちが年末走るのと比べて。 (やっぱ、神社は結婚式、寺は葬式。 神社は年明け、寺は年末って感じの役割分担なんでしょうか) 見事だなと、神社の活気、いきいきとしたエナジーを感じながら思います。

旧い友人と地元で箱根駅伝往路観戦したり、鶴岡八幡宮や建長寺にお参りしたり。 都内に出て、箱根駅伝復路観戦して、そのあと銀ブラしたり。 とても幸せなお正月でした。 おいしい食べ物を山ほど食べた!

それにしても正月って暇だね。
お仕事が明日から始まる人たちがうらやましい。
私はあと三週間ぐらいホリデーがあります。
むむむむむん。 何して過ごそう。