2010-04-29

のまれちゃってた

 最近は自分の先の事ばっかりに、気持ちがのまれちゃっていた。 結構疲れた。

 あーでもない、こーでもない、これが欲しい、これが欲し くない、あれがしたい、これがしたいってのに、どっぷり浸かってみて、自分の業の毒っけにやられた。 最終的にはばかばかしくなってしまった。

  最近日本、外国っていうのをよく考えた。

 過去のブログを読んでいると、学生の頃は日本やニュージーランド、イギリスっていう特定の地域 の事を、区切って書いたりしていない。 自分の移動に対する体感が、とてもシームレスだったから。 はっきりとした境目は持っていなかった。 

  働き始めてから急に、ジェレライゼーションが激しくなった。 君は、山本七平にでもなりたいのかいってぐらいの日本語り、外国語り。

 働き始めると、税金も今まで以上にたっぷり払うし、急にぐっと広い年齢の、色んな人達と出会う。 だから嫌でも社会性みたいなのは芽生えるんだと思う。 
 
  大人は裏方だ。 子供たちの為に必死に良い社会をつくろうとする。 子供のうちは、その大人の努力に気がつかない。 働く事の意味や、具体的な動労のイメージは、裏方になって、働きださないと掴めない。

 特に私の場合は親が働いている国以外で働いているから、特にロールモデルが乏しかったんだと思う。

 それでニュージーランドの事を今までの視線と違う風に理解すればする程に、日本と比べたくなったんだと思う。 私の持っていた「働くってこういう事だろう」っていう感覚は、現実の自分が体験している事とすごく違っていて、それに驚いて、「日本と海外」っていう枠組みでその ショックを表現しようとした。

 また時期的に私は、将来どこに住みたいのかっていうのを調査していた。 色んな国の法制度や、社会の成り立ち方を読んでいたから、それでやけに‘選択者目線’になったんだと思う。
 
 私の周りにはコスモポリタンな人達が多かった。 大抵の子は何個か永住権や国籍を持っていたし、色んな言語を話した。 私も、親がそういう環境を与えてくれた。 子供は親に与えられて、初めてそういう暮らしが出来る。 私達が当たり前に思っていた事は全部親達にお膳立てしてもらって初めて成立する事だった。

 当たり前の話、大人になったらそれを自前で調達しなくちゃいけない。 そして、大人になってから、大人の自分に、そういうチャンスを与えるのって思いのほか難しい。 ビザとるのとか、本当に努力がいる。 「フランス料理にするか、イタリア料理にするか」とかってノリで選択できるものじゃない。

 それに家族は年を取るし、自分 も新しい家族を始めるような年齢になる。 もし自分が新しい家族を始めるのなら、今度は相手の家族もケアの対象に入ってくる。

 若いうちの武者修行は色んな所でやってみたいのだと思いつつも、同時に家族との時間も恋しい。

 そういうの悶々と考えるうちに、結構のまれてし まっていた。 でもだんだんと浮き上がってもきた。

2010-04-28

日記らしい日記

 友達が日記らしい日記をブログに書いていて、なんかそれが素敵なので私もやってみる。

 今朝は、昨日の夜焼いておいたミルクパンを食べた。 あんまり健康的じゃない感じのパン。 真っ白の小麦粉に、白いお砂糖を入れて、焼いたやつ。 冬なので二次発酵が難しい。 昨日は、ベッドの中に湯たんぽと一緒に入れて発酵させた。 そうしたら、ものすごーく上手くいった。 これまでの短い(けれども失敗の多い)パン作りの中での最高傑作。 フワフワで美味しかった。

朝ご飯のメニューは以下の通り。
  •  牛乳と、ペルーシュのブラウンシュガーを入れたアールグレー
  •  バニラ味のヨーグルト
  •  ゴールデンキーウィフルーツ
  •  パンと蜜柑のマーマレードと、梅のジャム
朝ご飯を食卓で人と向き合って、会話しながら食べるかどうかで一日の感じが全然変わる。 少なくとも、目が冷めるし、そして、会社につく頃には体が仕事の為に整っている。

今、職場でやっている仕事は単調作業。 これまでの会社の書類を、新しいVIのフォーマットに統一する作業。 なかなか終わらない消化仕事。 見事に頭も使わない感じ。 でも何かは学んでいるのかもしれない。 学んでいないかもしれない。 何とも言えない。

indesignでいちいち一枚一枚の書類を作るのは悪夢なので、wordでやるように切り替えたんだけど、そうしたらもっと違う次元の、そしてもっと壊滅的な悪夢に突入した感じ。 マイクロソフトの商品は人生でほとんど使った事がないんだけど、使う度に何かが枯れるのを感じる。

効率が悪すぎるのでiworkのpageを買ってもらって、作業方法を切り替える。 格段なスピードアップ。 そして、神経が若干回復する。 若干の喜びが作業に生じる。 wordとpageは質が違う。 でも、まあ、五十歩百歩で、これで徹底的に人生の質が向上したって訳じゃない。 若干、最悪が小悪になったぐらい。

とりあえずこの仕事をはやく終わらせたい。 上司も同じように、この消化作業にフラストレーションを溜めているらしく、日に日にキリキリしていく。 そしてデザイン事務所ではよくあることだと思うんだけど、ついに上司、宇宙語を話しはじめた。 相手からしたら私が宇宙人になったって事なんだろうけど、二人のコミュニケーションは見事に破綻。 お互い何の話ししてるのか全く分からないってのが続く。

お昼は夕飯の残りの酢豚と、ジャスミンライスのお弁当。 お米はジャスミンライスが一番好き。 日本のお米も好きだけど、こっちで日本の美味しさを求めても満足は得れないからあえて試さない。

連れ合いが、葡萄や蜜柑をいっぱいお弁当に入れてくれていたので、デスクで一人でもぐもぐ食べた。 なんか日光のサルになった気分だった。

ピルが使われるようになって50年経ったそうで、今週のTIMEの特集になっていたから、帰り道に買って読んだ。 ピルは私にとって、一つのすごくシンボリックな物。 日本と、私が成人したイギリスニュージーランドの差を最も感じる事の一つだから。





こっちでだとコンドームはファミリープランニングの道具だとは言われない。 コンドームは性感染症を防ぐ為の道具で、いつ自分が妊娠をするのか否かをコントロールする為のものではないと言われる。 高校でも、大学でも、病院でも、「ピルを飲んで、コンドームをつけてセックスしろ」と言われてきたし、はっきりと強く「コンドームだけを使った状態でセックスはしちゃ駄目」と言われた。 ピルは病院で処方してもらえて、費用は一ヶ月$1.00(70円)だ。 統計的にもピルを服用している女性の方が子宮などの癌にならない場合が多く長生きするらしい。 だから、セックスをしていない人でも服用している人は多い。  こっちでだとピルは本当に普通で普及されている物だ。 感覚的には、生理用ナプキン位普通なもの。

記事を読みながら、その集団のたどってきた歴史が違うからこの違いがあるのかなあと考えた。

「社会に生息する人間としてのエロス」と「ほ乳類としての生殖活動」の線引きは、地域によってすごく違う。 日本でだと自分の身体をバイオロジカルに見るのが嫌がられるし、エロスの領域がとても広い。 だからファミリープランニングの話しも陰美な感じになるし、そこには男女の秘め事っぽいオーラが漂う。 それはそれで精神性高く情緒的で良いのかもしれないけど、でもそれだけが自分の体に対して尊厳をもったり、慈しむ方法じゃない気がする。

ほ乳類なのに、超能力的な、超自然的な事を自分自身に求めすぎるのも何だよなあと悶々。 でも日本の多くの女性からしたら、同じフレーズを西洋諸国の女性に対して言うのかもしれない。 だからこれはあんまり精神論の話しじゃないなと、電車の中で一人で決着を付ける。 それに日本の女性の精神性は、他のどこの地域の女性のそれと同じように、尊くて美しい。 そこは確か。  

多分、日本でピルが人気無いのも、啓蒙されてないのも、ほとんど存在しない物扱いなのも、個々人の精神性とか神秘性の問題じゃなくて、ただ単にその社会の人がピルから得れる事柄を求めていないからかもしれない。

理想は得れた知識や経験、様々な視点などを自分の為に活かして暮す事だよな。 情緒も持ちたいし、精神性も保ちたい。 でも、それだけに溺れたり、逆に自分をただのバイオロジカルな存在として医療だけの対象にするのももったいない。

いかにそれを実行するか。

とりあえず、今連れ合いが帰ってきたので、これからパスタを作る。 初めてパスタの生地を自分で作るのでワクワクしてます!

2010-04-27

仕事分担

朝ご飯とお弁当と、週の半分の夕ご飯と、洗濯と、掃除は連れ合いの仕事だ。

女性の朝は化粧したりしなくちゃいけなくて忙しいので朝食の用意は男性がやる。 ムーミンママのごとく、ジャムをにたり、パンを焼いたりしてくれている。 お弁当はしかり。 濡れた洗濯物は重いし、掃除はやるとくしゃみが出るので、なんとなーく相手の方にまわしている。 

私は計画をつくり、指揮はとるけど、実践はあまりしない。
デザイナーだから。 ウィキさんもこうおっしゃってる。
“デザインの語源はデッサン(dessin)と同じく、“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareである。つまりデ ザインとは、ある問題を解決するために思考・概念の組み立てを行い、それを様々な媒体に応じて表現することと解される。”

そのとおり! なので、家事という問題を解決する為に、色々と私は組み立てる。 そして週に一回数個の計画書をメールで連れ合いに送る。 その週に必要な食材と、レシピをまとめたもの。 その週にやられていなくてはいけない事柄。 そしてその週の会計について

相手は計画書を貰いそれをもっとも効率的な方法で実行に移す。 エンジニアだから。 工学的思考をドメスティックにアプライ。 エンジニアは夢を実現するのが仕事なのだ。 なのでデザイナー界隈では、エンジニアと便利屋はニアイコールな扱いだ。 よく「エンジニアに聞け/頼め」と言う。 我が家は家庭内でもその役割分担。

ただたまに自分は昭和の親父なんじゃないかと思う事がある。 若い妻に甲斐甲斐しくされて、悦に入っている醜い親父なのではないかと。 

その不安を払拭するため、夕飯は半々でつくっている。

2010-04-25

色んな体 1

 体とか、病気への対応って、地域柄が出ると思う。

サブスクライブして読んでいるブログでたまたま体について書いてあったので興味深く読んだ。

産後うつと中村うさぎとタイガー・ウッズ by クローデン 葉子さん

中村うさぎ著書にみるビョーキに対する日米差異 by 渡辺千賀さん

前者はイギリスに住んでいる日本人の方、後者はアメリカ在住の日本人の方が書かれた記事。 主に医療や病に関して、日本とそれぞれの国でどう違う対処がとられているかについてと話している。

 違う国に引っ越して、医療制度や“健康”って言葉の意味の差に驚くのは王道だと思う。 制度的な面でも、技術的な面でも、そして倫理であったり、身体への認識とか、見事に地域ごとに違うから。 食べ物とかと同じ位のレベルで文化の違いを感じる事が出来る。

 そして私も、上に書いてある二人のブログの題材になっているように、産婦人科的な事と精神に関する事の差は特に感じる。 身体観やセックス、ノーマル、アブノーマルに関する認識の違いがモロに出るので、差が見えやすいからだろう。

 以前にも書いたけど、こっちではGPと呼ばれる地域の医療センターにいる医者に自分を登録して、かかりつけになってもらう。 緊急事態の場合以外は、まずそのGPに会い治療してもらう。 だからよっぽど専門的な治療が必要になった場合以外は、内科/外科/産婦人科/眼科っていうカテゴリー無しに、診察される。 定期検診やら癌検診やらも、GPにやってもらう。 恋人が出来た際や、誰かとセックスした際もGPに会いに行って諸々の検査をしてもらうし、家族計画やらなんやらも一緒に考えてくれる。 ものもらいが出来たときに会う人と、ピル処方してもらう為に会う人が同じってのは面白い。 渾然とした自分の体をそこに感じる。

 だから相手に対しては、日本での医者患者という関係よりも、自分と健康管理のコーチ/アドヴァイザーっていう感じがする。 治療されに行くと言うよりも、自分自身をマネージする為に行くという感じがする。 

 なんでそういうふうに感じるかというと、‘知る’って言う事に重点が置かれているからな気がする。 すごく説明されるし、自分自身から色々質問する事を推奨される。 ブックレットとかも結構置いてあるし、病気の予防も治療も、薬よりも何よりも基本的な知識とそれに基づく実践が大切なのだと言われている感じ。 そういう意味で結構プログレッシブだと思う。

 他民族国家の場合、医療関係はプログレッシブな態度を突き抜かないと、多くの人の医療を受けるチャンスを奪ってしまうのだと思う。 興味深い。

 どんな病院やGPであれ、でかでかと“ニュージーランドにおける保健医療、障害者サービスを利用する際の権利”が張られているのが面白い。 これは保健医療•障害者サービス委員会という行政のグループが啓蒙している事柄。 そこのウェブサイトに行くと、三十カ国語以上に訳されたリーフレットがダウンロードできるので、英語と、その地域に多い民族の独特言語版で医療機関に張ってある。 

大体こんな感じ

1. To be treated with respect.
1.尊重と共に治療される事

2. To be treated fairly without pressure or discrimination.
2.強制や差別の無い公平な治療を受ける事

3. The right to dignity and independence.
3.個人の尊厳と自主性の権利

4. To receive a quality service and to be treated with care and skill.
4.高い品質のサービスと、技術とケアの伴った治療を受ける事

5. To be given information that you can understand in a way that helps you communicate with
the person providing the service.
5.医療関係者とのコミュニケーションを助ける、あなたの理解できる情報が提供される事

6. To be given the information you need to know about your health or disability; the service
being provided and the names and roles of the staff; as well as information about any tests and
procedures you need and any test results. In New Zealand, people are encouraged to ask
questions and to ask for more information to help them understand what is going on.
6.あなたの健康と障害に関する知る必要のある情報を与えられる事:サービスの内容、職員の名前とその役割、検査や治療の内容と検査結果。 ニュージーランドでは自分が受けている治療を理解するため、医療関係者に質問をする事、より多くの情報と助けを求める事を推奨しています。

7. To make your own decision about your care, and to change your mind.
7.自分の意思でケアを決定でき、またそれを変更出来る事

8. To have a support person with you at most times.
8.ほとんどの場合において付き添いを伴える事

9. To have all these rights apply if you are asked to take part in a research study or teaching
session for training staff.
9.医療研究、あるいは研修実習の被験者となった場合でも、これら10項目が適用される事

10. You have the right to complain and have your complaint taken seriously.
10.サービスに対して苦情を申し立てる事ができ、その際には真摯な対応を受けられる事


NZでは、自分が自分の体のコントロールを持てている、マネージ権を持っているいという感覚を重視するのだと思う。 受けている治療について深い理解を持つ事や、「あなたはこれらの事を自発的に求めて良いんですよ」っていうリスト自体が、その自分が自分の主権を持てるように誘導されている。 これは同時に医療関係者がもめ事を回避するために、啓蒙しているツールなんだとも思う。 「アーサティブでいようぜ」っていうメッセージだ。

別にどっちが良いとか悪いとかじゃなしに、随分日本と感覚が違うんだなと驚いた。

以前日本で鬱病の治療を受けている知人が、もしかしたら、その治療の流れを理解できてないのではないかと思えた事があった。 その人は、基本的に医療に対して受け身で、そして治療を受けていて、投薬されている自分自身をみじめな存在として捉えていた。 

もしかしたら、そういう発想になってしまうのは、鬱病だったからかもしれない。同じ精神的立場に立っていない私にはそれが「医療サービスと患者」の立場によって生じている事か、それとも「病気の性質」がそうさせていたのかは分からない。 ただ違和感が強く残った。

NZでは「薬を飲んで、精神的な余裕を作り、その間に根本的な原因などの対処をする」っていう認識が強いのではないかと思う。 職場環境であったり、人間関係であったり、鬱的な状態でいたら問題解決が出来ないだろうから抗鬱剤を処方されるのだと思っていた。 その人はあたかも、抗鬱剤を抗生物質のように捉えていて、根本的な治療がそこにあると思っているように見えた。 そして患者さんが治療を受ける事で自尊心が低くなっているのも含めて、医療提供者側の説明不足なのでは無いだろうかと思った。

そしてもしかしたら日本では「自分が自分自身に対するコントロールを強く持てている」っていうメンタリティーが治療の支えにならない/求められていないのかもしれない。 愚痴るのも治療のうちなのかもしれない。 その「相手の方に力がある」っていう受け身な状態も確かに安心感あるし、絶対感を感じられるから。 私はどっちの考え方で接された方が早く治るかは分からないから何とも言えない。

だから、多民族で形成されている国での、医療システムの方法論を作るってのは非常に難しいんだろなと想像した。

NZでは医療通訳を無料で提供してもらえる。 以前一緒に住んでいた人は、緊急治療室に勤める韓国人の看護婦の方で、韓国人の方を中心に治療を行っていた。 「この方法が普遍的」ってのが無いから、包括力の強いプログレッシブなポリシーとともに、多元主義的アプローチがとられているのだろう。

興味深いなあと思いながら、眺めていた。

言語の地図

 最近気がついたんだけど、頭の中で、なんとなくこういう感じと自動翻訳する機能を私は持っている。

 どうやら私にとって、英語は標準語で、スペイン語(ラテン系言語)は関西弁に訳されるようだ。 訳されるというか、同じ引き出しに入れられる、感じ。
 
 昨日行ったカフェの給仕さんは南スペイン出身の方で、こっちに来て三年目ということもあり、アクセントが強く残っていた。 後に彼の言っていた事を思い出したら、脳内で関西弁に勝手に翻訳されて再生されている事に気がついた。 試しに、ポルトガル語を想像したら、同時に三重県の事が頭に浮かんだ。

 マオリ語は発音が、北関東と東北の人の話す日本語ととても似ている。 母音の音が強くて、鼻にかかる感じで。 だから、マオリ語を聞くと福島県の事とか思い出す。 この部分は結構ロジカルだと思うんだ。 似ている発音同士を一緒に思い出すってのはさ、さもありなんな事じゃん。

 しかしまさか、「暗い、固い、剛健」「明るい、柔らかい、華やか」の対立を私は無意識で「関東」と「関西」に置き換えていたとはしらなんざ…。

 そして勝手にスペイン語のアクセントがあると、関西弁(というか、関西人が喋る関東弁)に翻訳して、脳内にセーブしていたとは。

 なんて幼稚な脳! 私は物事の整理の仕方が、どうもおおざっぱだぞとは常々思っていたけど、本当にそうだったみたい。

2010-04-18

あゆみちゃん、世界一!

 あゆみちゃんの結婚式の写真を見たよー♥ ううう…。
お綺麗で、お綺麗で! お前の美貌に泣いたぞ! 髪型、かっこよ過ぎるし。

 おめでとーーー!
愛してますよーーー!

 旦那にも宜しく!

2010-04-15

寂しくなるよ

 二年間位、私が助手をしていた大学の先生がもうすぐイギリスに帰国する。 今日はオークランドに報告会のためたまたま来ているので、仕事の後に会って夕飯を一緒に食べる予定。

 多分、nzで会うのは最後。 泣かないつもりだけど、泣く気も満々。

 飛び級しまくったので、私と同い年なんだけど大学の先生な、とても優秀な彼。 終身在職権だって持っている。 私たちは16歳位のときに イギリスで会った事があって、nzで再会して、友達になった。 そして彼の研究室で働かせてもらっていた。 研究目的というお題目のもと、毎年日本に一緒に帰国して遊んだ。

 寂しくなる。 寂しくなるよ。 イギリス遠いもん。 彼との友情は、私にとって結構意味があったんだ。 彼ともう一人の友達と、三人で遊ぶのは、大学時代で一番楽しくて、愛おしい事だった。 寂しくなるよ。 でも、同時にちょっとほっともするよ。 1人欠けているとかって考えなくてよくなるからね。 もう、みんなしていないんじゃん!

 大学のクラスメイトで、良い友達だった、寛容で伸びやかで優しい友達のマーティンも今週からシドニーに移住する。 彼は、本当にいつも気をかけてくれた。 本当に優しい。 本当にcareをしてくれる人。

 「シドニーに友達いる?」と聞かれ、「いない」と答えたら、「よかったね、これで泊まる場所が出来た。 遊びにおいで。 いつでも遊びにおいで。」と言われて、寂しいけど嬉しかった。

 いつか、また、リースやルークのような友達が出来たら良いなあと思う。 三人でじゃれたり、遊んだり、ふざけたりさ。 終止、その男達の魅力にクラクラして、疑う事無く恋に落ちているような状況が、またもし私の人生におこるんなら、私本当に何かに感謝する!

 
それにしても、大学の頃の友達で国内に残ってるのは、殆ど私のみになってしまった。 寂しいというよりも、なんか焦る。
私は今のところあまり日本の産婦人科系の情報提供の仕方が好きじゃない。 これは慣れによる心地よさの問題なんだろうなと思う。 成人になってからずっと 暮らしているNZで得る情報の方が、私個人の身体感や倫理観などが近いのでしっくり来る。 逆に、日本のは慣れてないので読んでいて、自分の体が好きだと 思えなくなるし、なんかどっか居心地悪い。

 例えば避妊に関して。 日本ではコンドームがメジャーな避妊法とされているけれど、NZではコンドームは性感染症対策として使われている。 メジャーな 避妊法は、ピルの服用。 もしピルを飲んでいない場合、飲み始めて効果が出るまではセックスするなと高校で先生や医者などからは言われる。 そしてお互い の体を守る為に、絶対にコンドームも使用しろよとも念を押される。 またピル以外でも、ピル同様‘排卵しない’事を重点に置いた避妊方法がとられている し、選択肢は結構ある。 ピルは処方してもらうと、費用は1月70円(NZ$1)ぐらい。 そんなに安いのなら、なんでいっそ無料じゃないのか逆に気にな る。 

 これが日本の場合結構状況が違う。 例 えば1994年の時点で25-29歳の間の女性のピル使用率は、イギリスでは50%以上、ドイツでは64%となっている。 そして今はもっと増え てているのではないだろうか。 世代別ではないんだけど、日本では 2006年の時点で全体の1.8%の女性がピルを使っている。 結構な差だ。 残りの人達はコンドームとかを避妊に使っているんだろう。

 なんでこんなに差があるのかはっきりした事は私には分からない。 けど、たまに知りたい事があってグーグルをする際、日英で検索するんだけど、本当に回 答に差があって驚く。 とりあえず、日本語圏内ではピルは推奨されていないし、どっちかっていうとろくでもない物的な扱いだ。 そして公式見解的な回答が とても少なくて、ほとんどが噂話の程度。 しかも軽くホラー。 怖い、暗い、薄汚い。 なんか女から女への伝達って感じの場である。

 英語圏内の情報はもっとドライだし、医療や行政関係からの情報公開が多い。 また、男女混合で避妊って考えられている気がする。 男友達の多くがピルの 働きを基本的に知っているし、女の子にとるように勧めている。 一緒に住んでいたら、ピルの服用忘れが無いか気をかけるのは二人の仕事だ。 

 多分、バイオロジカルな意味でのセックスとエロスとしてのセックスの境界線が引かれている位置が違うのだと思う。
 
 英語圏では、結構精神面とか以外は、バイオロジカルにほ乳類としてのセックスとしてとらえられている事が多いのだと思う。 日本の場合は、結構そこがぼ んやり(もしくはエロスの占める領域が広い)のではなかろうか。

 ウェブサイトを例にとっててみると、日本の産婦人科系のサイトやらはピンク系な色彩が多く、何故か多くの要素がイラスト/漫画(キャラクター?)で表現 されている。 登場人物みんな漫画でピンクがちりばめられてる、イラスト満載なファンシーワールドで婦女子を歓迎してくれる。 女子トイレより怖い。 一 回入ったら二度と戻れなさそうだ。 それか90年代初期的なサイト。 両方とも、なんか信憑性が無く見える。 

 英語圏でだとどっかのオーガナイゼーションが情報公開をしている事が多い。 基本的に水色が多く使われていて、写真やらデータが乗っていて、現実的だ。


2010-04-12

アヴォンデル マーケット

オークランドには何個か市場がある。

どの地域にあるかで文化背景が違うのでとても面白い。

毎週、食料品の買い出しの際は観光込みで違う市場を順繰りに回っている。

アジア•ポリネシア系住民の多いアヴォンデルという地域で毎週末行われている市場はとても面白い。 不景気が始まる以前はヨーロッパ系の人はほとんどここに来なかったそうだ。 でもここ一、二年で、客層が変わったらしい。 こうやって混ざっていくのかと興味深く思いました。





お店ごとに小さなテントを出して商品を売っている。 農家からの商品を直接売っているお店、八百屋での売れ残りを売っているお店とあり、鮮度や値段に結構ばらつきがある。 結構真剣にどのお店で買うかを選ばないと損をする。 毎週ここで買い物している人は、もうルートが出来上がっているみたいんだけど、まだそんなに詳しくない私は、ひたすらうろうろ歩き、安くて新鮮な商品を探す。




この市場のお店屋さんは、華僑の人達(nzの八百屋は彼らによってほとんど独占されている気がする)、ラオやカンボジアからの難民の人達が経営する農家直営のお店、インド系の八百屋(インド人はインド人からしか物を買わないらしく、競争が働いていないので、商品が若干高い。)などなど。 その中からベストを選ぶ。  もしくは相手の上手い口にのせられて、ベストじゃなくても買ってしまう。 この一連のプロセスは中かなに楽しい。







魚屋さんもあるよ。 この買いは、ピピという。 可愛い名前。





これだけの果物をオークランドの一部の人間たちで一週間のうちに消費するのかと思うと、我々の胃袋に敬意を持つわ。













nzの果物及び野菜はでかい。














乾物の売り方もダイナミック。






こんなサイズのチリ、何に使うんだろう。









プラム。 大好きだから、いつも大量に買う。
って言っても、一日に二個ぐらい食べる程度だけど。
nzでは一日に二個は果物を食べろと行政からのお達しが出ている。
バス停とかにでかでかと「野菜と果物を食べるのだ」と貼られている。
面倒見が良いと言ったらいいのか?

2010-04-11

おうちロースト

週に一回家の子たちで一緒に夕飯を食べる。

今週のメニューは、

前菜 モロッカンオムレツ

主菜 ローストビーフとローストヴェジタブル

デザート プルーンとチョコレートのケーキとミルクティー

台所でみんなで赤ワインをごくごく飲みながら料理。

ローストは外れ無し。
いつも通り美味しい。

ローストをする際はオーブンのタイマーをつけて家を出る。
だから家に帰ったときには家中に美味しーい匂いがしている。

おばあちゃんの家の夕飯時のお味噌汁の匂いとにたような感じで、「これこそ家なり!」っていう匂いなんだよね。  なんだか泣いちゃいたくなるような匂いなんだ。

モロッカンオムレツは初めて食べたんだけど、すっごい美味しかった!

新鮮なトマトをすりおろして、そのなかに刻んだコリアンダーや、生姜、ニンニク、セロリなどなどを入れる。 そのソースを入れたフライパンに生卵をいっぱい落として、ぐつぐつ煮るの。 どれだけこの調理法がオーセンティックなモロッコでの料理方法に忠実なのかは疑わしい所だけど、それでもっ、とても美味しかったです。 満足です。





 こんな感じに調理する。





取り分けた様子。 我が家で一番男らしい男が取り分けてくれたので、なんか、ごっつい感じの盛られ方。 がっつりいきました。 半熟卵と、トマトが混ざって、ああ…、良かった…。





メインのローストビーフ。 この肉は、連れ合いの実家の家庭牧場から。

多分、彼。

今確認してみたけど、やっぱりそうらしい。 
随分と美形な牛を頂いております。
 
肉食って難しい。
どこでどうやって育って、そしてどうやって屠殺されたものを食べるのか。
どれぐらいお金を払うのか。
そもそも生き物を食べるってのはどういう事なのか。 

連れ合いの実家は、普通にサラリーマン家庭なんだけど、オークランドのはずれの小さな牧場に住み、自分たちの食べる動物を育てて、殺して、それを食べて生きている。 私達もそれを分けてもらっている。 連れ合いが実家を出るまではその一連のプロセスは彼の仕事だったんだそうだ。 子豚が産まれたら、弟と市場に売りに行って、売り上げがお小遣いだったそうだ。 

最近の牧場はオートメーション化がすすんでいて、完全に動物工場だ。 牧場が実家の友人の家に行くと見学させてもらうけど、結構大きなクエスチョンが自分に残る。 私の友達は牧場で育った子はやっぱり菜食主義の子が多い。 勿論、完全に受け入れている場合もある。

多民族国家に住んでいると、当然のように菜食な人達が地球上には沢山いるのだと知る事になる。 職場にも宗教上、伝統上、または個人の考えで菜食主義者の人達が沢山いて、当然のように肉食をしている自分が、少し居心地悪くなる。 連れ合いが肉を食べるから、今はいい感じの環境でケアと、(工場にいる家畜と比べ)自由と長い人生を得た動物の肉を食べているけれど、それでもなんかやっぱ「自分は実際どうしたいんだろう」って思う事が多い。





そんな事を頭の片隅で思いながら、ローストを食べる。
悔しい程に美味しい。

いっぱいおもしろい話しをして、けらけら笑って、デザートにケーキ。

晩餐をする事で一週間の自分の生活がうまくまとまる感じがする。

2010-04-10

からだとどうぐ

私は大学で工業デザインを勉強していた時は人間工学が一番好きな授業だった。

大学病院で医療器具デザインを実際に試して人間と道具の関係を知るのはとてもためになった。 セメンティックによって使用の的確さと正確さが最適化されている製品を病院では見る事ができる。 

だから検査などで病院に行くのは結構好きで、じろじろと道具を観察している。

知恵が装置に置き換えられているのを見る事が出来る。 

デザインの力を感じたい時は、(逆に言うと自分の中のデザインへの信頼が弱まっている時)病院に行くと、まだまだ出来る事は沢山あると思える。 

デザインでも言葉のように、繊細で、的確に、そして包括的な物を提供出来るのだと知る事は心強い。 

2010-04-09

からだのこと

この間子宮頸癌の検査をした。

この検査は20歳以上70歳以下の性交渉をしたことがある女性が対象になっている。

子宮の入り口の部分の細胞の変化から、健康状態を測定する検査なので最初の数年はデータ収集の為に毎年、それから3年づつ行う。 検査の時期になると自分の登録している病院から検査を受けるのだと連日のように手紙が来るようになる。 ありがやた、ありがたや。

癌検査をするようになるとは私も歳をとったものだと、初めは微妙な心境になった。 でも一度その行動の有意義さを知ると今度はちょっと力を与えてもらったような気分になった。

この検査をスペシャライズしている女性看護師の方がやってくれるのだけど、その人の与えてくれる知識とそれに対する態度が、私の意識を変えてくれるのだと思う。 医療関係者の方は偉大だと思う。 彼らと話すといつも診療室を出る頃には、自分の体は大切なもので、慈しまれるものなのだと再確認させてもらえている。 多くの場合、彼らは本当に繊細なコミュニケーションをとってくれる。 一回の会話で沢山の事を学ぶ事が出来る。

また奇妙な事を言うと思われるかもしれないんだけど、私は病院がくれる啓蒙用のパンフレットなどを読むのが好きだ。 自分の体に関する知識を得る事は、empoweredな事だと思う。 そしてそういうパンフレットでの、プログレッシブな言葉遣いが、まだまだ人間捨てたもんじゃないという気分にさせてくれる。 なんか勇気を与えてもらえるのだ。

例えばパンフレットに乗っている女性たちの人種や民族的特徴、年齢が多様である事。 確かに一つの社会の層ではこの検査を受ける事に抵抗がなくても、他の層の人達にとってはチャレンジングな場合があるのだよなと視覚情報から気がつきなおせる。 また対象となっている女性の説明が「性交渉をしたことがある、独身女性/男性のパートナーのいる女性/女性のパートナーのいる女性/障害のある女性/閉経後の女性/現在性的にアクティブではない女性」と書かれている。 くどい。 ただ、きちんと多くの人達に検査を受ける必要性を説く為には、やはりきちんと言わなくてはいけない。 なんかそういうところに、人体は平等に慈しまれなくてはいけないのだなあとほろりとくるのだ。 他にも知りたい事が、短くて的確な言葉で書かれている。 少なくとも今、気がつく限りの多くの女性を包括するように書かれているのが読んでいて分かる。 視覚的にも、言葉的にも。

こういう繊細な詳細が、いろんな民族や価値観の人達が集まって暮らしているコミュニティーでの、医療面での公平さを維持させているのだよなと思う。 実際病院では沢山の言語を見る。 

商品を作って売るという場合は、自分たちの企業の商品を買ってくれるであろうマーケットに、最も的確にメッセージが届くように言葉や形を研ぐ。 例えば明らかにヘテロ用の商品を売る際には、レズビアンの女性はあたかもそこにいないかのように広告(企業からのメッセージ)を打つ。 そう言う意味で非常に排他的だ。 

その結果「こういう人も、こういう人も、こういう人も全部ひっくるめて女性なんだよなあ」と思う機会ってのは案外と少ない。 言われないと忘れる。

自分は"含まれている"と思える事は(諸刃の剣ではあるけれども)ほっとする経験だ。 特に体に関してはそうだと思う。 自分の体は忘れられていないと思える事は、安心感と肯定感に繋がる。

今回は子宮頸癌の検査だったから、こういう女性たちのグループに自分が含まれたし、勿論他の検査の為にはまた違うグループに含まれたりするのだろう。 その時、自分が忘れられていないと良いなと常々思う。

商売をする限り、限定的になってしまうのは仕方がない。 ただ、それだからこそ、極力自分は沢山のグループの中で生きていて、そこといろいろな形で繋がっている一人の人間なのだと意識していたい。 そして他者の体も自分の体も平等であると忘れずにいなくては。

癌検査を受けて、なに突拍子も無い事を考えているんだと思われるかもしれないけど、看護士さんと話していたらほんとうにそう思ったんだ。

秋に入ってきた

Malcolm McLaren

うちの会社のCEOが朝からずっと、 Malcolm McLareの死についてtwitterしまくっている。 CEO、ポストパンク世代だから聖者が亡くなったような心境なんだろうなあ。 泣ける。




"It is better to be a flamboyant failure than
any kind of benign success"

Malcolm McLaren



FUCK YEAH!

殺気立ったパンツ野郎

 うちの同居人の1人は終止殺気立っている。 

PIXELS

仕事のため、5000万円規模の結婚式を調査していたら
やっぱり象が出てきた。

そこまで金払ったんなら、象に会場まで運んでもらいたいわな。

そりゃそうだ。

不景気って関係ない人には関係ないのねー。

私ならそのお金で家買うなって思うけど、
結婚式にそんなにお金を使う人は家なんてもう既に何個も持ってるんだろう。

2010-04-08

ナイーブさ

 私の今いる会社は結婚関係市場と、写真市場と、出版製本市場をまたいで仕事をしている。

 写真は別に興味が無い訳じゃない。 出版製本はとても興味がある。 ただ、結婚関係は全く興味がなかった。 会社に入るまで結婚式って何なのかもよく知らなかった。 

 結構ゆるい環境で育ったので幸か不幸か「俗にいう’結婚’という選択をする人が現代にまだいる。」という事も実感無く育った。 だからそういう文化があると知った時にはたまげた@職場。 よく就職できたよなと思う。 

 やっと最近になって弱冠カルチャーショックが消化できてきて、「そういう人達もいる」と思えるようになってきた。 そして彼らの文化の中に尊敬する面や価値があると思える事柄が見え始めてきた。 多分私は偏見を持っていたんだと思う。 だからこういうチャンスがあってよかった。 世の中いろんな人がいるんだなあと知る事が出来る経験であります。 私の高慢さと傲慢さを緩めるチャンス到来。

 世界中にクライアントがいる会社なので、それこそ本当に世界中の結婚式に関するデザインをしたりしている。

 この側面は実に面白い! お国柄、人種柄、民族柄が出まくっている。 私今計らずとも結構色んな結婚式の作法/伝統に詳しい。 多分色んな民族の結婚式にスムーズに出席できる。

 また予算かけまくった結婚式のトレンドにも若干詳しい(はず)。 最近じゃ、自分が実際やるかやらないかは別にして「これ私の好み/これが私の夢の結婚式」ってのまで出てきた。 環境が人を作るね。 こんな意見を自分が持つようになるなんて想像もした事無かった。

 まず写真家はブリスベン在住の、Jonas Petersonさんが良い。 この人の撮る結婚式の記録写真のかわいらしさが好きだ。 Petersonさんはまだ駆け出しの結婚関係の写真家なんだけど、スタイルがはっきりとある写真を撮るのですでに大人気。 仕事のインスピレーションになるのでいつも彼のブログをチェックしている。

 彼が撮影してきた結婚式の中でも、特に綺麗だなあと思っているのが、{joost & kirsty} ~ wedding ~ berryの結婚式。 ロマンティックすぎる感じもするけど、でも良い質感。

 

画像をクリックすると、写真家のサイトに飛べるので、是非彼のサイトで大きな画像で見てみて。





 あと、この彼が撮影したニュージーランドでの大自然結婚式も良い。


Neda + Sati "A Marriage of Two Cultures" from Cherish Films on Vimeo.


最近は結婚式をビデオで記録する人達も多い。 ペルシャ系とインド系の二人の結婚式のビデオ。 珍しい組み合わせのカップル。 彼らの結婚式のビデオをアメリカのCherish Filmsって会社が作製した。 アメリカとページャンとインディアンのお祝いの仕方が一気に見えて美しい。 なんと、これがこの会社の初めてのプロジェクト。 元々は広告業界にいた人が、人の幸せとか記憶に直接関係する仕事がしたいと言う事で起業したそうです。 上手。 不覚にも涙。

確かにこうやって人の人生の憶えておきたい、とどめておきたい瞬間を記録する仕事は素敵だ。 そして多くの人にとって、結婚式ってそういう日なんだろう。

勿論、結婚式以外でも人生にはそういう日が沢山ある。 日々の営みにはそういう美しさが溢れている。 自分の喜びを他の人に伝えたいと思える人生はとても幸運だ。 私たちはそれを通じて豊かになっていく。

だから、結婚式とかも悪くないかもね。 大きな、大きなお祝いを人とする事は、そりゃあ楽しいだろうと思う! ポジティブにいよう。 産業としてみてしまうと、シニカルになっちゃうから。 人の営みとして考えたら、結婚式ってラブリーだわ。

一面だけを見て否定するのは簡単で、そういう子供っぽさから、奥にある温かさや実際の人々の動機や良心は簡単に消されてしまう。 こうやって私がナイーブに否定しているうちは自由じゃないんだよなあと反省した。 「値段は知っているけど価値を知らない」っていう人になりたくないので。

メジャーな就職動機にはならないと思うけど、こうやって自分が全く興味なかった産業に入ってみるってのも、面白いよなと思う。 少なくとも謙虚になる。 キャリアにどう繋がるかは分からないけど、人間としては成長する。

2010-04-07

 日本では「税金」とはお上に吸い上げられるお金で、二度と自分には戻ってこないものっていう封建制度的な意識があるんだと思う。 納税が市場で行うのとは別の形の投資及び消費っていう気はあんまりしない。 もっと、なんというか、老害への募金?っていう程度の感じなんじゃないだろうか。 少なくとも家の親を見ているとその程度な感じだぞ。 年間にいくら納税しているのかは分からないけど、その額と見合った価値のあるリターンを得ようっていうアグレッシブさは感じない。 自分が現金を動かしてやる市場での直接消費への熱心さの半分位を、公共の金へのガバナンス欲にまわしたら結構良い社会になるんじゃないかと思うよ。 少なくとも民間/消費活動で問題解決をしようっていう方法からは若干解放されそう。

ゆるやかなつながり

 日本で、’つながり’ってのがイシューになっているみたいだね。 無縁であるとか、孤独であるとかってのがクローズアップされているのね。 それでシェアハウスとかかがクローズアップされてるのね。 NHKスペシャルで「無縁社会」として報道された事からの影響なのかな? 私もその番組はNZで見て、胸が痛くなった。

 確かに、日本は「1人」っていう単位が多いかもしれないと思う。 一人一人を徹底的な消費者にする事で国が栄えたっていう流れがあるからだろう。 白物家電でも家具でも、食品でも不動産でも、何でもかんでも家族単位じゃなくて、一人単位に消費してもらったら市場が一気に広がる。 そうやって市場を拡大させる事で、どんどんと人とのつながりを、ときほどいてしまったんだろう。 それで若者の一人暮らしっていう不思議な文化が出来上がったんだろうね。 まあそうやって経済を発展させようと思ったのは、結構クレバーだよなとは思うよ。 その方法が社会を疲弊させた気がするけど。

 Anyway, 日本と比べてニュージーランドはある面においては、結構人と人が親密な国なのかもしれないと思う。 移民の国だからやっぱり一族郎党のタッグの組み方がすごいし、ヨーロッパ系の人口が多いからカップル文化も強い。

 単純に多くの人達は他者と暮らしているし、インターネットでも大抵顔出しだし、結構いろんな事で人間同士なんだから何とかなるって事で本人同士が直接交渉をする。 そういう事が出来る程度には社会に対して安心感があるし、他者に対して肯定感がある。 いざとなったら、ソーシャルワーカーとか、そういう行政が用意している調整役の人達に相談すれば良いっていう態度がある。 みんなそうやって節約をしたりして、時間を作っては旅行に行ったりしている。

 そもそも社会そのものに一人暮らしし用の商品がそもそもそんなに無い。 またNZ人の共通認識として、「賃貸の家賃はどぶに捨てているもの」ってのがあると思う。 なんか払いたくないのだ。 別に自分の銭使って大家さんを豊かにしてあげたい程大家さん好きじゃないし、プライバシーも重視しないのだ。

 確かに夜居場所がある事、荷物をおいておける場所があるのは素晴らしいが、なんかそれでも賃貸の家賃のノーリターンっぷりには腹が立つ。 出来るならば頭金をとっとと貯めて、小さなアパートなんかを買って、自分が日常的に払っている家賃位の額づつでローンを返済しつつ、住宅の値段が上がっているときに売って、若干儲けて、もっと大きな家に引っ越していきたいっていう欲望がある。 (実際もうすでに結婚していたりするような保守的な26歳位の子だと既に、二軒目の購入した家を持っていたりする。) なんか賃貸にお金を払うってのが生理的に苦手な国民たちなのだと思う。 実際私も影響されていてそうだ。 投資にならないのならば、大きな額は払いたくない。

 おおっと、お金の話で、”つながり”っていうイシューとかと離れていってしまった。 
 
 ええっと、多分多くのニュージーランド人はそこまで無縁じゃない。 ニュージーランド人全員に会った事が無いから、言い切れないけど、私の会ってきた多くのニュージーランド人は大概回りに人がいた。

 そしてそういうのを見ていると結構こういうのって親の努力なんだなあと見ていて思う。

 例えばヨーロッパ系の子たちの場合、大抵ファミリーフレンズがいる。 家族単位で友達の家族だ。 大抵が親がカップルだった頃、カップル同士の友達として友情が始まり、お互いに子供が産まれたら”幼なじみ”や、”学校以外の場所での友達”として小さいときから頻繁に遊ばせてそうなるみたい。

 子供も、大人側にかなりなついている場合が多い。 私の多くの友人の実家にもそういう家族単位での友達が何軒かある。 何かあるとそのうちの親の誰かに相談やら質問やらをするため電話をかけているし、子供同士も仲が良くて、初めて実家を出る際も、そのうちの同い年ぐらいの子たち一軒家を借りて共同生活を初めていた。 子供たちが就職活動で使う履歴書の採点とか、親たちのたらい回しでやっていたし、こっちは推薦人や保証人が必要な場合が多いんだけど、彼らがなる場合が多い。

 子供が小さいときはみんなが集まるような企画は親がたてなきゃいけないし、よそのうちの子供みんなの誕生日を思い出してカード送るのも大変だろうし、これは親の努力なんだなと見ていて思う。 でも基本的には”楽しさ”によって結ばれる絆(夏休みの旅行や、バーベキュー、お泊まり会、親同士の助け合い)だから、とても楽しそう。

 またそれ以外にも、子供が産まれた際には大抵ゴッドペアレンツを、一人一人の子供につける。 大抵男女(この二人は夫婦じゃなくても良い)1人ずつが、一人の子につく。 これは元々はキリスト教の習慣なんだけど、今は無宗教の人でも持っている。 もし実の親に何かが会ったときに頼る相手がゴッドペアレンツだ。 また思春期やらで親と上手く行っていないときなんかにサポートする役割でもある。 そして大概ゴッドペアレンツの実の子と、自分は何となく従兄弟みたいな感じで仲良く育てる。 兄妹みんなで違うゴッドペアレンツを持てるのがミソだよなと思う。 家族から若干逃げ出したいときに、比較的遠めで、でも概念的にはとても親密な、自分用の大人がいてくれるってのは大きな支えだと思う。 

 ポリネシア系の人達はまず家族感が全然違って、ものすごく包摂的だ。 単位もでかいし。 母親の女姉妹みんなを「お母さん」って呼ぶようなタイプの人達なのだ。
 
 マオリも、独特の共同体の組み方がある。 彼らもすごくファミリーオリエンテッド。

 それはインド人コミュニティーしかり。 彼らも、端から見ていると、ものっすごく仲良さそうだ。 この間インド人の友人のお母さんが亡くなったんだけど、本当に、そのとき、強い一族の絆ってこういう事かっていうのを本当に見せてもらった。 華僑の人たちは言わずもがなだ。

 キリスト教の人達は、教会が一緒の人達ととても親密だ。

 移民の国だからかもしれないけど、結構そういう感じで人と人のつながりが強い環境があると思う。 勿論そこからもあぶれてしまう人はいるけど…。

 でも結構見ていてインスピレーショナルだなと思う。

御犬様天国

私の家の近所には犬が沢山いる!

数軒先に住んでいる白いもじゃ子ちゃんは私のお気に入り。

家の前を通るとご機嫌に飛び出してくる。

ひとしきり挨拶した後、すちゃっとお家の中に帰っていく姿も凛々しい。
ナイス ドッグ!














裏の家の犬、ラルフも良い。 連れ合いがいつも彼の行動にギャングスタな当てレコをつけるので、私の中の彼は、ふわふわで白くて小さいけど、結構マジでハスラなクールガイ。





ちっちゃいから、すぐそばにいるまで気がつかない。 
気がついたときは真横にいたりする。
キューン!






大抵家の夕飯がおいしそうな匂いをしているとき、「イヨ、ワザップ!」って表敬訪問してくれる。 どうやら粉もの系がお好きらしくピザとか焼くと来る。 ギャングスタに関西人要素が混ざっているのだろうか。







物をよく落とす彼の足下でうろうろしてみたりして、愛想やらを振りまいた後、飽きたら去っていく。
そんなところも好きだ。 ああ、犬!






ああ、ああ。 むね、しめつけられる。

2010-04-06

キャラメル色の部屋

休日はいつも自分がいられない時間に、
自分の部屋にいられるのが良い。

い つもは会社にいる時間に、
自分の部屋がキャラメル色になっていると知った。

仕事をやめて家にずっといたくなった。

この家は同居人達が必至こいて探してきた
ヴィクトリア期のヴィラ。
建物自体が骨董品って感じのやつ。
同居人のうち二人は建築家なんだけど、
彼らは私よりもこの家に恋に落ちている。

私は新しい建築よりも古いやつの方が好きだ。
なんか今日から解放される。

デザインの仕事をしていると、
もう今日とか明日とかで頭がいっぱいになってしまう。
多分建築家の彼らもそうなんだろう。

ちょっと違う時代の、
今では作られないだろう方法で作られた場所に帰ってくると、
「オルタナティブはまだまだ沢山あるはずだ!」って勇気が湧いてくる。

またこの家はすごくよくメンテナンスされていていまだに綺麗。
住んでいて楽しい家。
一体何人の人達がこの家に住んできたんだろうか。

現代の建築よりも天上が高くて、
装飾もすごい。
今度装飾の写真も取ってアップするわ。









冬になっていくのは寂しいけど、
この暖炉を使うのは楽しみ。





それにしても!!
私、寝室とスタディーが同じ部屋なの本当にやだっ!
だって絶対に片付かないんだもん。
しかも音楽家とデザイナーが同時に作業するわけなので…、
その乱れっぷりたるや、色、音、形、全てでどっかん。
嗚呼、もう、片付ける気なんて湧きゃしない。

これまではっきりと分ける為に
二部屋借りていたから
いまだにすべてが一部屋にあるのが堪え難い。
寝る部屋と、考えたり作業したりする部屋が一緒なのは、
なんか落ち着かん…。

次の家ではまた二部屋借りようと思う。

うちのイースター

今年のイースターサンデーはちょっぴり曇ってた。

でも家の前庭で知人友人らとピクニックをしたよ。

イースターエッグ(卵形のチョコレート)を庭に隠して、
探し合いっこをして、
そしてホットクロスバンっていうイースターのお祝いのパンを食べた。








このバスケットに入っているのが、ホットクロスバン。
写真ではよく見えないんだけど、お砂糖で白い十字架がかいてあるの。

ドライフルーツとスパイスがたっぷりと入っている
おいしーーーいパン。

ローストしたバナナやベーコンをはさんで食べた。

イースタはこっちではとても大きなお祝い。
nzは公共の休日があまりないんだけど
イースターは聖金曜日から月曜日まで四連休のお休み。

最高に楽しかった!

"休日"ってだけで無闇矢鱈と楽しい。
いひひ。

イースターはキリスト教の記念日(と言って良いのでしょうか?)と
古代ゲルマン人達の春の到来を祝ったお祭りの風習が混ざったものらしい。
だから沸き上がる生命の象徴として
イースターバニー(うさぎは多産)とか
イースターエッグとかが登場してくるんだって。

私、このイースターエッグが果たして
イースターバニー(彼らが配ってくれる事になっている)のなのか
私の卵なのか、
はたまたジーザスの卵なのかずっと気になってたの。

でもどうやらもっとぼんやりとしたものらしい。
多分、東洋で言う所の玉。

ユダヤ教の過越の祭りも今週末だったし、
日本もお花見で騒いだみたいだし、
今週は地球規模で
春を祝ったね!

でも地球は丸いからやっぱりどっか無理がある。

実はイースターの週末はニュージーランドの
冬時間が始まる日でもあるんだ。

あっはっは!!

やっぱ植民地体質から抜け出せないのか、
南半球からわざわざ北半球の人達に訪れている春を
お祝いしてあげたよ。
腰低いね、私達!

木登り

 木登りが好き。

大きな樹を見つけたら、一応登ってみる。

でも怖いから、そんなに上までは行けないわ。

しゅるしゅると登る。

もっとしゅるしゅると、
小猿のように登れたらどれだけ気持ちがいいだろうと想像してみる。











































 要するに、元々コミュニティー作りの中に‘一人暮らし’っていう発想があまり無いようだ。

 ここは日本と逆。 日本でだと独身で家を出 た場合は一人暮らしをするのが当たり前だけど、こっちでだとあまりそうじゃない。 家を出たらいろんな人達と共同で暮らし、その後恋人やパートナーと同棲 をして、いつか二人暮らしを始め、結婚する。 人生で一人暮らしをする時期ってのはあまり設定されていない。 少なくとも学生のうちは、当たり前の選択と して人と暮らす。

 

フラッティング NZ学生編 基本的な事

 フラッティング(日本で言うところのシェアハウス)はnzの大学生達の間では最も普通の暮らし方だ。

 私は30人位の学部にいたんだけど、そのうちの2人が実家、1人が一人暮らし、1人が学生寮に住んでいて、それ以外はみんなおのおのの友達やらと一軒家やマンションを借りて共同生活をしていた。

 NZの子たちの典型的な育ち方は、17歳ぐらいで高校を終了して、一年位ギャップイヤーを持つ、その間に家を出る。 そして働く子は働きだして、大学に入る子は大学に入る。 だいたい18歳位で実家から独立する。

 大学やら、その他の高等教育に行く子は、大抵学費と生活費を国から借金する。 これは国のやっている学費ローンで、利子や期限が無く借金が出来るシステムだ。 そして大学や研究費用を別にして生活費は最大で週に$150借りれる。 返済方法や額などはそのときの政府の方針によって結構変わるので、学生は大抵政治に興味があるし、学生に寛容な政党を支持する。
 
 週$150で暮らすのはかなり厳しいので、実家から週$80ぐらい援助してもらう子も多い。 同時に大抵の子は夏休みの間、アルバイトをして学期間中の為に貯金しまくる。 もし実家の収入がある一定以下だと、返済しなくて良い奨学金を国から週に$220貰える。 また25歳以上も、学費及び生活費が無償で支給される。

 Anyway, この週に$150ってのが重要な数。 これは「絶対にそれ以上の家賃は払わんだろう」っていう数だ。

 大学一年生のときは優先的に大学が管理する住宅や寮に入れる。 大抵五人位の人間で共同で暮らす事になる。 そこの家賃が$120ぐらい。 こういう建物は大学から近いってのと、周りがみんな同い年位の田舎から出てきた大学初心者の子達でパーティーしまくれるって以外に利点は無い。 けど人気。 ”大学の管理下”ってところで安心感があるからみたい。 でも一年後には大抵飽きて自分で家を探す事になる。

 NZには日本のような不動産仲介業者がいないので、探すときは大家さんが出す新聞の広告(週2回まとめてリストになって出る)か、大学の学生部、もしくはtrademe(nzのヤフオクみたいなの)で探す。  今はtrademeが主流。

 trademeに今日載っているウェリントンのワンルームの部屋数は183軒。 大体$200から$300位が相場なので、こういうのはよっぽど人と一緒に住みたくないか、恋人と二人で同棲したいかっていう人向け。 $150以下の一人暮らし用の部屋で広告に出ているのは2軒しかない。

 フラット(一軒家やアパートを人と共有する暮らし方)だと、439軒広告が出ていて、$100から$150位が相場。 $150以下でも187軒広告が出ている。

 気になる家を見つけたら、投稿者にメールを送り、面接の時間を設定する。 例えば4人用の家で一部屋開いているから広告を出している場合、大抵家に住んでいる3人とその家で面接をする。 お互いが気に入ったら入居。 大学の年度が始まる前は家探しの壮絶な戦いになるので、一つの部屋を30人と取り合うとかってのもある。 でものんきなシーズンの間はそんなに難しくない。

 また元々一緒に住みたい人がいる場合は、家を探して大家さんと自分たちのグループが面接をする。

 一番好ましい立地で、好ましい値段で住みたいって時は、同じような要求を持っている友達同士で集まって、一緒に家を探す方が、上に書いたようなもうある場所に1人で後から入るよりも、いい結果になる事が多い。

 でも家の中でまで知人同士の人間関係を持ち込みたくない場合は、知らない人達と住む方が楽。 私は三回知らない人達と、そして三回元々友人だった人達と住んだ。 まあ両方長所短所ある。

 面接の間はこれまでフラッティングをした事があるかとか、どんな料理をするのかとか(肉食か菜食か)、生活パターンとか、そういうのを聞きあう。 これがあわないと生活がめんどくさくなったりするからね。

 そして契約書にサインして(どれが壊れたら誰が直すとか、家賃や期間についてとか書いてある。 要、熟読!)、ボンド(敷金)を払う。 ボンドは、ボンドセンターという役所に預けられる。 契約が終了時、大家さんが「これこれの修理代の為にいくらいくら取りますよ」って書いてきて、それを借り手が承諾したら、おのおのの額がボンドセンターから配当される仕組み。

 もし何か問題がおこったりこじれた場合は大学にある学生部か,市民相談所、もしくはThe Department of Building and Housing(DBH)っていう行政機関に相談する。 大学やDBHのサイト上にはトラブルシューティングが結構載ってるので、よく読めば大抵解決できる。 もしそれでもこじれた場合は、DBHが簡易裁判をしてくれる。 費用は$20。 この裁判はオンライン上で申請できる。 その、裁判って言っても怖いものじゃなくて、本当に村の仲介人みたいな賢者が両側からの意見を聞き、問題解決を手伝うって感じらしい。

 多分、これの大学の学生部と、役所がやっている仕事を日本では不動産屋さんがやっているんだと思う。 だからなのかな。 日本の”シェアハウス”っていうあまりにもパッケージ化された‘商品’に対して、コストパフォーマンス的にも倫理的にもムカッと来たのは。 私が「これは自分か公共のサービスがするべき仕事」って思っている事があまりにも消費文化的に組み立てられていっているのを見てなんかやな感じがした。

 ‘シェアハウス’っていう名前にそれが現れている気がするぞ。 「知人友人と一軒家を共有して使う」とか「他人と同じ家を分け合いっこして使う」って言ったら、そこに業者が入る隙間が無くなる。 だって、ただ家借りて人集めて、約束事を制定すれば良いだけの話になるから。 でも‘シェアハウス’ってなると、なんかちょっと高くなってもそれも若干ありな感じになってしまう。 "青春やら友愛やらを得れますよ"的な付加価値がムカつく。 リクナビやら就活やらと同じタイプのうさんくささ。 「普通に自分でやれよ」って思ってしまう。 まあ、二軒目とかになったらみんなそうするだろうけどさ。 そうなったら面白いだろうね。

2010-04-05

シェアハウス とか その周辺の過剰な感じとか

 最近シェアハウスについての意見をたまに見るようになった。

 日本ではあまり他人と同じ家を共有で住むっていう生活方法になじみが無いから、オルタナティブが出来るっていう意味では良いと思う。 

 ただネットで広告とかを見た限り、あまりにも商業的で、そして高い! 日本の資本主義のしぶとさに心打たれたわ。 商売っ気がすごいよ。 もっとミニマルなシステムで回っているnzと比べてしまうからかもしれないけど複雑な気分になった。 

 日本に滞在していると、好きな面とそうじゃない面が見えてくる。 好きな所は歴史背景とか人間の性格とかがNZと比べて複雑な所。 ニュースとか見ていて、いちいち興味深い。 一つのトピックに(例えば沖縄の基地問題と か)軽くNZの総国民数以上ぐらいの利害関係者がいそう。 大変だけど、興味深いなとは思う。

 逆に嫌な所は問題解決の方法に、消費文化が入りすぎている所。 同じような複雑さがそこにはあるんだけど、どっか浅ましく見える。

 例えば公立の学校に問題があるってなると、私立が出来て、それに入る為の塾も出来る。 大人は産業が増えて良かったって話しだけど、子供側からは大人の問題解決能力の無さの所為で、昼間は学校で受験に関係ない勉強をして、夜また塾で勉強する事になる。

 実際最も的確できれいなラインの問題解決方法は公立の学校の品質の向上であるはずなのに、もっとぐちゃぐちゃで矛盾した方法で解決しているように見える。 

 そういう、一見対策になっているけど、実際は無駄と不必要な差別化によってなりたっている物事が、子供から消費文化とは関係のはない家庭での遊びや安らぎの時間を取り上げていたりする。 そして無意味な時間(eg学校でぼけーっと、機能不全な不愉快に耐える時間)をどこかで肯定させてしまう。 この耐久力さえあればそりゃ大人になってサービス残業とか出来るようになるだろうと納得させられる。 でも教育とか人間の成長にそんなアイロニカルな方法を与えなくても良かろうに。

 もし、そういう無理矢理な隙間産業が日本から無くなって、多くの行動が目的を達成するまでの良心的な最短距離をとったとすると、多くの仕事は無くなってしまうんだろうか? それともクリアになって、時間に余裕が出来た事でもっと有効な進歩の方法を考えたりできるようになるのか?


 とりあえず日本社会のウルトラオーバースペック感は、世界の多摩ニュータウン的な新興住宅地国家に住んでいる者から見ると脅威。 簡潔な物があまりない。 無印良品とか一見簡潔だけど、お店の中の商品数と物の密度を見ると、実際はウルトラオーバースペックだと思う。

 そしてシェアハウスもどっかですっごいクレバーさの無い新しい産業っていうふうに見えてしまう。

 もっと短い距離で、まっすぐな線が引かれた、簡潔で簡単なシステムが作れただろうけれども、出来るだけ湾曲させて、お金が落ちる隙間を持たせているように感じられたのです。 私が神経質なだけかもしれないけど、ちょっとムムムってなった。

2010-04-04

詳しいのか詳しくないのか

 私には何人か親友がいる。

 ケイスケはそのうちの一人。 最近彼が私の他の親友シオネと仲良くなったらしい。 花見とか一緒にしちゃってるらしいよ。

 ケイスケはまめだからある程度動向が掴めている。 でもシオネの場合は結構謎。 すっげー大雑把な友情を育んでいる。 気にはしているし、愛情もあるんだけど、細かい話は結構どうでも良い。 もし必要になったら連絡とってくるだろうし、no news good newsね。 大雑把にシオネの事は大肯定していて、大好きだし、なんか永遠って感じの愛があるんだけど、詳しいか詳しくないかって言ったら、正直あんまり詳しくないかもね。 あっはっは。

 この雑さを心配してなのか、元来の人の良さなのか、まめさを活かし、ケイスケは結構な私の窓口だ。 動向を知りたい友達を彼に紹介しておけば、彼が定期的にその人と連絡を取り、私に教えてくれる。 最近シオネひなたぼっことかしているらしい。 良かった! 日本に私がいない時は、彼経由で友人らの生存情報を獲得。

 日本にいる際は待ち合わせとかしていて、遅れそうな時はとりあえずケイスケに「お前代わりに行って、相手を楽しませていてくれ!!」的な事を頼んだりできる。 良いやつ。 いつか恩返しさせてくれ。

 勿論そもそもの根本には、私の親友らが結構面白い人達で、大抵親友同士を紹介するとみんな気が合ってくれて、純粋な友情を育んでくれるっていうナイスさがあるからなんだけど。

 みんな大好き!

 特にケイスケの恋人が一年間留学で日本にいなかったから、溢れんばかりの彼の愛情欲と思いやりが若干余っていたみたいで、最近一年間特に親切にしてもらった。

 ってことで、この友情のシャワーを浴びた後の私は、もし将来なんだかの拍子で私に子供なんかが出来ちゃった場合は、絶対にケイスケにゴッドファーザーになってもらおうと決めている。 子供の反抗期なんかの際は任せたっ。

 子供の名前をつけるのを手伝って、その子の誕生日には毎年特別にカードを送ってあげて下さいね。 節目節目で遊びに連れて行ってあげて下さい。 頼む。

 なんなら頼まれても無いのに、君んちの子供のゴッドマザーになるから、あたし! その子が女の子(リトル・ミーちゃん)ならウェディングドレスあたしが買うから。 なんならウェディングケーキもあたし買う。 男の子なら(リトル・ケースケ)盆栽でも買ったる。 その子がイッチョマエになるまで私とパートナーとで、毎年誕生日前後に連れ出して、クールな事一緒にするわ。

 うーん、こうあって考えておくとやっぱり親友って「一緒に子育てをしてもらいたい人」でもあるんだよなと強く実感。 私、ミーちゃんにも、シオネにも、ケイスケにも、その他沢山の親友達と、いっぱい一緒に生きてきたい。 子供が出来たら、ゴッドペアレンツになってもらいたいし、友達の子供いっぱい可愛がりたいし、良い小母ちゃんになりたい。 そして何よりも、彼らの視界の中で自分の子供を育てたいよ。 もし自分が子供を持たなくても、そういう次元でいっぱい関わり合いたい。 だってなんか大肯定だから。

 まあ、だからって実際誰が今どこで何しているかとかって細かくしらないんだけど。 「日本にいるんじゃん?」ぐらいの扱い。 あっはっは。 大雑把!

2010-04-02

GP NZ生活メモ

 こっちの医療システムはちょっと日本と違って、まずどういう症状であれ緊急の場合を除きGP(General Practitioner)とよばれる、自分の担当医に会いに行く。 専門医や特別な治療が必要な場合はGPが紹介状を書き行き先を指定してくれる。 自分のGPがいる病院が自分の登録病院となり、もし引っ越しなどで違うGPにかかるようになった際は、新しいGPが以前の自分のカルテを受け取って自分の担当医師になってくれる。

 私は、結構健康体で自分の登録病院を持っていなかった。 一回や二回大学内の病院に行った事はあったけど、登録しますかと言われても、特に必要性も分からず登録していなかった。

 今回オークランドに引っ越してきて、会社の近くのGPに何回か継続的に行かなくちゃ行けない事になり、登録しないと割引がきかないとの事で初めて自分の担当医師を得た。

 このシステムが結構良い。 先生との相性が良かったからかもしれないんだけど、結構理想的な医師と患者の関係を結んでいる。 とりあえずなんでもGPに相談。 なんだかんだで毎月一回は会いに行っている。

 そして登録して初めて知ったんだけど、結構色んな情報をGPは送ってくる。 定期検査やら予防接種やら、体に関する啓蒙やら、登録していないと簡単に忘れる/知りもしないっていう事になる。 

 今回受けた子宮頸癌の検査も職場に数回赤紙のごとく通達が来たのでやっと行ってきた。 うーん…。 今までこの無責任さ(eg病院に自分を登録しない、大使館に在留日本人として登録しない、などなど)でどれだけ重要な情報を得ていなかったのだろう…。 若干反省。
 
 ってことで、もしこれを読んでいるニュージーランド及びイギリス在住でまだGP/Family Doctorに自分を登録していない人、絶対した方が良いです。 って言っても常識なので、ここに住みはじめて8年目にしてやっと登録したっていうアホは私ぐらいだと思いますが…。

 実は最近保険も切れているのに気づかないまま数ヶ月間過ごしてしまいました。 その事を緊急治療室で働く看護婦の友達に言ったら本気で怒られた。

 世間様社会様が、好意と良心で設計してくれている社会のインフラに、己がすすんできちんと包摂してもらうってのは、成人として本当に求められる事なんでございますよね…。

 このブログではそういう社会常識や海外生活メモや、これからNZに来る人にたいしての情報が著しく少ないのは、勿論そういうのが私に乏しいからです。 これまでのらりくらりとやってこれちゃったんですよ。 本当に、人様の好意と親切心のみに支えられてこれまで過ごしてきたって感じです。

 繰り返しますが、もし、これを読んでいて、結構無責任で、まだGPに自分を登録していない人! 色々検査とかが溜まっちゃっているはずなので、速攻で登録しましょう!!! 周りの人に迷惑をかけない為にも、自分自身がきちんとした知識を手に入れる為にも重要です…。

 はぁ…、あとどれぐらいこういう「しらなかった! きづいてなかった!」ってことが残ってるんだろう…。
 

2010-04-01

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おまけ

そういえば以前こういう事を言われた事がある。


1.旅とか旅行とか旅人とかっていうのがベタだから嫌だ

 こういうのを日本の子から聞いた。

 ギャップイヤーの目的の一つって、そういう童貞をこじらせた感じとか、中二病とかからリベレイトされるためだと思うのよね。 そういう、なんつーか、ムンムンムラムラな自意識に対して、ナイーブでナルシスティックなケアをするよりも、一反そういうのは忘れて外に出てみる。 知らない地で、どぎまぎしたり、新しい物を見ないと、なんっつーか人間が元来持っている性欲であったり自意識であったり、思春期汗的なしょっぱさが体内で焦げ付いてしまうのではないだろうか…。

 一回そういう事を言う人に「大学の学食で騒いでいる奴らは’俺らって楽しそうだろう’っていうメッセージを発していてうざい」と言われたことがある。 度肝を抜かれた。 旅嫌いとかと根っ子は一緒だろう。 超越しろって話だ。 もしくは、結構真剣にLiberateされた方が良い。 誰もそんな話興味ないし、なんか恥ずかしいし、どう考えてもそんな事言って良い年齢は16歳までだ。 18歳位でもそういう事を若干気にしたりはするかもしれないけど、少なくとも口に出しちゃもういけない。 「お母さんと一緒に街を歩くのが嫌だ」ってのと同じ次元。 繊細さとナーヴァスさを混合しちゃいけない気がする。

 ショタコンっぽいものを求める場合はそういう生々しい若さに美が見え隠れするかもしれないけど、そういう路線でスマートに成功したい場合は全身エディ•スリマンとか着なきゃいけないから、コストパフォーマンス悪すぎ。

 ってことで、本当にそういうことを言う人程、自分自身の為にも見聞を広げる旅に出た方が良いと思う。 なんかそういう気がする。


2.そんなん日本じゃできない

 確かにそうかもしれないけど、それを言っちゃオシマイな気がする。 

 日本にも、ギャップ・イヤーを導入することはできるだろう。それは、助けになるだろう。しかし、そのようなことが、外国から輸入される国と、自分たちの中で、内発的に、ごく当たり前のこととして出てくる国は、何かが根本的に違う。 


このようにモギケンは言っているけど、ある程度の面までは個人でも一緒なのでは? 内発的にやりたいと思ってやってみたら道は開けるのではないだろうか。 


 そんなことを思いました。

GAP YEAR

 茂木健一郎さんのブログにGap yearの事が書いてあった。 そういえばこういのって日本にない。 

 ギャップイヤーとは、高校から大学進学までの間や、大学卒業から就職までの間に往々に人々が取る一年間位の休みの事。 ニュージーランドの場合は大抵の人が取る。 a.肉体労働をしてみる(炭坑や牧場で働く) b.世界一周の旅に出る c.第三世界にボランティアをしにいく  d.諸外国にワーホリにいく などをする人が多い。 大学に入る前にギャップイヤーをしなかった人は、大学卒業後に。 大学に入る前にやった人でも、卒業後にまたしたりする。

 ギャップイヤーって、元来仕切り直しの年なんだと思う。

 スクール(カリキュラムが決まっていていろんな事を上から教わる場所)と、ユニバーシティー(リベラルな環境でリベレイトされ、勉強というよりは研究をするための場所)って、そもそも全然違う。 ユニバーシティーと、職場も全然違う。 全然違う環境同士がシームレスに繋がる事は無理なので、人々はギャップイヤーを挟む。 そして、そこでそれまでの規則や価値観から一度解放されて次の環境にいく事を推奨される。

 旅行っぽい形でのギャップイヤーをやらない人でも大抵交換留学をしたり、国同士が若い人に向けてやっている労働力交換プログラムみたいなのに参加する。 日本が海外に向けてやっているので、とても人気があるのはJET(外国語青年招致事業)だ。 私の友達は沢山これで短期間日本に働きにいっている。 日本は英語圏の人達からしたら言葉が通じないし、文化も違うし、科学技術力が発達していて近未来だし、最も人気なギャップイヤーのディスティネーションの一つだ。 って事でJET大人気。

 多分これはグランドツアーの現代版なんだと思う。 グランドツアーは、18世紀頃のイギリスで大学とかにいくような階級の子たちが一年位を使ってしていた海外研修旅行だ。 その人の専攻によっても旅行先は違うけど、大抵はローマとかギリシャとかっていう西洋文明の古典発祥の地や、当時カッティングエッジな地だったフランスなどに行った様子。

 (そういえばニュージーランドは、グランドツアーにも若干かぶる’冒険大好き根性’のノリが激しくなって植民地化されちゃった悲劇の地なので、大学ではマオリ人の大学教授から歴史の授業で若干憎々しげにこの事について教わった。 冒険大好き根性は下手すると帝国主義やオリエンタリズムと重なってしまうからね。 アウチ!)

 anyway、元々インテリ層及びアッパーミドルクラスにあったグランドツアーを推奨する要素と、現代社会の環境同士の恐るべき断層(スクールとユニバーシティー、ユニバーシティーと職場)への理性的な橋渡しが必要だった事が入り交じって、今日のギャップイヤーがあるんだろうと思う。



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利点

1.上にも書いたように頭が若干リセットされる

 私の場合は高校とこっちの大学の間に滞在した日本での2年間がギャップイヤーだった。 当時は日本の大学を卒業する気が40%ぐらいはあったので、特にこれがそのものズバリなギャップイヤーだとは思ってなかったんだけど、まあ、結果的にそうなった。

 私の二年間の日本での体験は本当に良かった。 良い経験を沢山したし、今も仲の良い掛け替えの無い友人達にも出会った。 そして、自分が実際学位を取ったときの研究プロセスの間、ずーーっと、このギャップイヤーでの経験が私にインスピレーションを与え続けてくれた。

 この経験がなくて、直接大学に行っていたら、結構しんどかった/子供のままだったんじゃ無いかなあと思う。 大学入る前に一回子供時代の環境から切り離されたってのは良かった。

  
2.案外人生は短いのでこういう時間を上手く見つけないと、出来ない経験ってのが沢山ある

 一体全体いつ、人生のレールから決定的に落ちることなく、ある程度の「生の喜び」を体験できる経験をする事が許されるだろうか? もしくは、自分がそれまで育った環境と全く違う場所での悲喜こもごもを体感できるのか?

 どこかで徹底的なヴォランティア貢献がしたいとか、世界史の現場を回ってみてみたいとか、自分の専攻に関する聖地巡礼がしたいとか、そういうのって考えだすときりがないけど、いつやったら良いかってのは案外難しい。

 確かに大学入る前か、卒業後にするのが一番いい時期そうだ。


3.その後色々と有利

 英語圏だけなのかもしれんが、そういう体験を企業側は労働者に求める。 建築家なら、きちんと世界中の主要建築を見た事がある事を、デザイナーならいろんな国の、いろんな物の使われ方を観察した事があるかを雇用者は気にするし、もしまだ経験していなくても「これからそれをする気があるか」ってのはすごく見られる。

 一年間多国籍グループで協力しあってアフリカに井戸掘った人の方が、そうじゃなかった人よりも何となく評価が高いのだ。 マンハッタンの摩天楼やフランスのエッフェル塔の下から上を見上げて、ビビった事がある人の方が、そうじゃない人よりも、高見を実感できていると思われる。 そういう素朴な感覚が結構ある。

 少なくとも、好奇心と生命力のある人だとは思われる。


4.なんか自分自身が元気になる

 上手く説明できないんだけど、なんか元気になる。 そして、どっか楽観的になる。 自信がつくし、若干物事の具体的なサイズとかが分かるようになるからだろう。

 損得勘定がそこまで関係ない事に一年間やらを費やせるってのは、自分を健康にするために結構適した行動だとおもうんだよね。

 どれだけギャップイヤーを取った事が履歴書上で有意義か否かって言ってもね、最終的には能力さえあれば経験なんて関係ない。 ギャップイヤーが能力を急激に押し上げてくれる訳でもない。 ヴォランティアでした事で「後々自分の利益になるから」っていう損得勘定を持ってしまうのは、どっかで超越できてない感じがしてばかばかしい。

 ただ一度自分がいかなるインステチューションからも離れてみるっていう、損得勘定のリセットにはすごい価値があると思う。

 なんか人をすごく元気にする。
 日本にも、ギャップ・イヤーを導入することはできるだろう。それは、助けになるだろう。しかし、そのようなことが、外国から輸入される国と、自分たちの 中で、内発的に、ごく当たり前のこととして出てくる国は、何かが根本的に違う。