2010-04-09

からだのこと

この間子宮頸癌の検査をした。

この検査は20歳以上70歳以下の性交渉をしたことがある女性が対象になっている。

子宮の入り口の部分の細胞の変化から、健康状態を測定する検査なので最初の数年はデータ収集の為に毎年、それから3年づつ行う。 検査の時期になると自分の登録している病院から検査を受けるのだと連日のように手紙が来るようになる。 ありがやた、ありがたや。

癌検査をするようになるとは私も歳をとったものだと、初めは微妙な心境になった。 でも一度その行動の有意義さを知ると今度はちょっと力を与えてもらったような気分になった。

この検査をスペシャライズしている女性看護師の方がやってくれるのだけど、その人の与えてくれる知識とそれに対する態度が、私の意識を変えてくれるのだと思う。 医療関係者の方は偉大だと思う。 彼らと話すといつも診療室を出る頃には、自分の体は大切なもので、慈しまれるものなのだと再確認させてもらえている。 多くの場合、彼らは本当に繊細なコミュニケーションをとってくれる。 一回の会話で沢山の事を学ぶ事が出来る。

また奇妙な事を言うと思われるかもしれないんだけど、私は病院がくれる啓蒙用のパンフレットなどを読むのが好きだ。 自分の体に関する知識を得る事は、empoweredな事だと思う。 そしてそういうパンフレットでの、プログレッシブな言葉遣いが、まだまだ人間捨てたもんじゃないという気分にさせてくれる。 なんか勇気を与えてもらえるのだ。

例えばパンフレットに乗っている女性たちの人種や民族的特徴、年齢が多様である事。 確かに一つの社会の層ではこの検査を受ける事に抵抗がなくても、他の層の人達にとってはチャレンジングな場合があるのだよなと視覚情報から気がつきなおせる。 また対象となっている女性の説明が「性交渉をしたことがある、独身女性/男性のパートナーのいる女性/女性のパートナーのいる女性/障害のある女性/閉経後の女性/現在性的にアクティブではない女性」と書かれている。 くどい。 ただ、きちんと多くの人達に検査を受ける必要性を説く為には、やはりきちんと言わなくてはいけない。 なんかそういうところに、人体は平等に慈しまれなくてはいけないのだなあとほろりとくるのだ。 他にも知りたい事が、短くて的確な言葉で書かれている。 少なくとも今、気がつく限りの多くの女性を包括するように書かれているのが読んでいて分かる。 視覚的にも、言葉的にも。

こういう繊細な詳細が、いろんな民族や価値観の人達が集まって暮らしているコミュニティーでの、医療面での公平さを維持させているのだよなと思う。 実際病院では沢山の言語を見る。 

商品を作って売るという場合は、自分たちの企業の商品を買ってくれるであろうマーケットに、最も的確にメッセージが届くように言葉や形を研ぐ。 例えば明らかにヘテロ用の商品を売る際には、レズビアンの女性はあたかもそこにいないかのように広告(企業からのメッセージ)を打つ。 そう言う意味で非常に排他的だ。 

その結果「こういう人も、こういう人も、こういう人も全部ひっくるめて女性なんだよなあ」と思う機会ってのは案外と少ない。 言われないと忘れる。

自分は"含まれている"と思える事は(諸刃の剣ではあるけれども)ほっとする経験だ。 特に体に関してはそうだと思う。 自分の体は忘れられていないと思える事は、安心感と肯定感に繋がる。

今回は子宮頸癌の検査だったから、こういう女性たちのグループに自分が含まれたし、勿論他の検査の為にはまた違うグループに含まれたりするのだろう。 その時、自分が忘れられていないと良いなと常々思う。

商売をする限り、限定的になってしまうのは仕方がない。 ただ、それだからこそ、極力自分は沢山のグループの中で生きていて、そこといろいろな形で繋がっている一人の人間なのだと意識していたい。 そして他者の体も自分の体も平等であると忘れずにいなくては。

癌検査を受けて、なに突拍子も無い事を考えているんだと思われるかもしれないけど、看護士さんと話していたらほんとうにそう思ったんだ。

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