2010-04-05

シェアハウス とか その周辺の過剰な感じとか

 最近シェアハウスについての意見をたまに見るようになった。

 日本ではあまり他人と同じ家を共有で住むっていう生活方法になじみが無いから、オルタナティブが出来るっていう意味では良いと思う。 

 ただネットで広告とかを見た限り、あまりにも商業的で、そして高い! 日本の資本主義のしぶとさに心打たれたわ。 商売っ気がすごいよ。 もっとミニマルなシステムで回っているnzと比べてしまうからかもしれないけど複雑な気分になった。 

 日本に滞在していると、好きな面とそうじゃない面が見えてくる。 好きな所は歴史背景とか人間の性格とかがNZと比べて複雑な所。 ニュースとか見ていて、いちいち興味深い。 一つのトピックに(例えば沖縄の基地問題と か)軽くNZの総国民数以上ぐらいの利害関係者がいそう。 大変だけど、興味深いなとは思う。

 逆に嫌な所は問題解決の方法に、消費文化が入りすぎている所。 同じような複雑さがそこにはあるんだけど、どっか浅ましく見える。

 例えば公立の学校に問題があるってなると、私立が出来て、それに入る為の塾も出来る。 大人は産業が増えて良かったって話しだけど、子供側からは大人の問題解決能力の無さの所為で、昼間は学校で受験に関係ない勉強をして、夜また塾で勉強する事になる。

 実際最も的確できれいなラインの問題解決方法は公立の学校の品質の向上であるはずなのに、もっとぐちゃぐちゃで矛盾した方法で解決しているように見える。 

 そういう、一見対策になっているけど、実際は無駄と不必要な差別化によってなりたっている物事が、子供から消費文化とは関係のはない家庭での遊びや安らぎの時間を取り上げていたりする。 そして無意味な時間(eg学校でぼけーっと、機能不全な不愉快に耐える時間)をどこかで肯定させてしまう。 この耐久力さえあればそりゃ大人になってサービス残業とか出来るようになるだろうと納得させられる。 でも教育とか人間の成長にそんなアイロニカルな方法を与えなくても良かろうに。

 もし、そういう無理矢理な隙間産業が日本から無くなって、多くの行動が目的を達成するまでの良心的な最短距離をとったとすると、多くの仕事は無くなってしまうんだろうか? それともクリアになって、時間に余裕が出来た事でもっと有効な進歩の方法を考えたりできるようになるのか?


 とりあえず日本社会のウルトラオーバースペック感は、世界の多摩ニュータウン的な新興住宅地国家に住んでいる者から見ると脅威。 簡潔な物があまりない。 無印良品とか一見簡潔だけど、お店の中の商品数と物の密度を見ると、実際はウルトラオーバースペックだと思う。

 そしてシェアハウスもどっかですっごいクレバーさの無い新しい産業っていうふうに見えてしまう。

 もっと短い距離で、まっすぐな線が引かれた、簡潔で簡単なシステムが作れただろうけれども、出来るだけ湾曲させて、お金が落ちる隙間を持たせているように感じられたのです。 私が神経質なだけかもしれないけど、ちょっとムムムってなった。

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