2009-12-02

タイヨンダイ・ブラクストン

 連れ合いがが8月から騒ぎ始めて未だに大興奮中のアルバムがある。 タイヨンダイ・ブラクストンのセントラルマーケットだ。 楽曲はここで聞けるので視聴してみて。

 たしかに素晴らしい。 彼のようにそこまで音楽に熱中するタイプじゃないので、「考えるだけで涙が出る」ってレベルでの感動はしてないけど、「考えるだけで、元気になる」程度にはやられてる。




 疲れていたのでベッドでごろごろしながら大音量でただずっとブラクストンの音楽を聞いていた。 この二つの軸が呼応しあう感じ、対立構造がある感じはストラビンスキーみたいだ。 絶対この人堂々とストラビンスキーラバーだと思う。 大抵こうやって二つのタイプの音とか質とかが音楽の中で駆け引きをする楽曲は好きじゃない。 でもそれが逆に面白くなるやりかたがあるみたいで、ブラクストンもストラビンスキーもそれが出来ている気がする。 音楽には全然詳しくないので何とも言えないんだけど、多分こういう駆け引き的な音楽を、「対話の駆け引きをやっているのだぞ」ってドラマティックに意識的に見せつけると、それはそれで許されるのだろう。 そんな事を思いながら、次にストラビンスキーの春の祭典をかけた。

 こっちは初夏で昨日の夜は蒸し暑かった。 二人で下着姿でベッドの上にごろっと身を投げ出して、一言も口をきかずにずっと春の祭典を聞いた。 たまに一つの楽曲は、どんな物語を読むよりも、どんな映画を見るよりも、濃厚で豊かな体験を与えてくれる。

 私の日常的な態度から、連れ合いは私が好きな音楽はきっとものすごいミニマルでドライな音楽が好きなんだろうと思っていたそうだ。(真夜中にJoy Divisionかけてるのに?!) 春の祭典に対して私が強い思いを持っているのが意外だと驚き続けていた。

 パティースミスが以前「どんなジャンルの音楽を聞く人にも愛される楽曲ってある。 例えばストラビンスキーの春の祭典、そしてルー•リードのWalk on the Wild Sideとか」って発言をしていた。 さすがパティー様、確信しか突かない。 本当にその通りだと思う。 「パティー様もそうおっしゃっていた」と言ったら、相手も納得していた。 春の祭典は私の生きている時代の始まりの音楽だと思う。 私たちはまだ春の祭典の演奏中にいる気がする。 だから好き。

 その後に、連れ合いのヴァイオリンの練習の為ドビュッシーとラヴェルを聞く。 彼のお気に入りの演奏録音にあわせてヴァイオリンをひく。 生演奏は体にしみる。 私は本も読まないで、ただベッドの上でねっ転がりながら音楽を聞いていた。

 自分の中も外も、部屋の空気も、色調も全部が治っていく感じがした。 どんどんと治癒された感じがした。 相手が練習を終えてベッドに飛び込んできた時には、私はこれまで体験した事が無い位にすっきりとして、気持ちがよくなっていた。

No comments: