2009-12-31
2009
地味目に、でも色々な変化に富んだ温かい毎日でした。 良い年だった!
去年の年末、淑と珈琲を呑みながら「体が喜ぶとか、心が喜ぶとか、頭が喜ぶとか、そういう断片的な興奮とか感情じゃなくて、もうちょっと全体的な感じに喜びを見いだしたい。 愛の年にしたい。」という話しをしていた。 実現できたと思う。 私、よくやったねと、自分の肩をポンポンたたいてあげたい。
来年は(あと数時間後だ!)家庭を大切にすると同時に、もっとクリエイティブにいくぞっ。 もっと仕事に夢中になりたいし、もっと質の高い物を、もっとわくわくするものを作る。 デザインに恋に落ちたい。
La Vie En Roseが胸に鳴るような日々を過ごしたいですね。
腑に落ちた事
2人で「そうだそうだ!」ってなった事の一つが、リレーションシップに関してだった。
「ある種の男女交際は土着的すぎてついていけん」ってのが共通の意見。 歌謡曲/演歌的世界というのか、とりあえず四畳半的な恋愛はしたくないと言い合った。 歌の歌詞で「あなたあなたあなたあなた」って連呼するやつはヒステリックで恥ずかしいから聞けませんし、やりたくありません。 後ね「うわっ、それマンガで見た…」ってのも避けたいよ。 くさいもん。
私たちのこの感覚はかなりマイノリティーだよねと頷き合う。 残念だけど、私たちの感覚は比較的珍しいんだろう。 だって結構自分のきわめて周辺以外では見ないもん。 だからって恥ずかしがる必要も無いし、自分をおかしいと思う必要も無いと言い合った。 モラルサポート!
私の感覚ではパートナーと生活を営むってのと、ボーイフレンドと恋愛を楽しむのって結構別物。 ボーイフレンドには全くパートナーシップを期待しない。 だってパートナーシップって結構難しいし、気持ちよくやる為には自分にも相手にも結構な成熟と自立が求められるって思っているから、私の場合は簡単には出来ないなと思っていた。
自分が未熟な事やまだ自分自身に自信が無いことは全然悪い事じゃないから、「まだだなー」って思ってたら、素直に無茶せず、気持ちよくカジュアルにボーイフレンドやガールフレンドといっぱいデートして、いっぱい遊ぶ事の方に重点を置けば良いと思うんだよね。 そういう自分と、そういう相手をエンジョイすれば良いと思うんだ。 そしてその間にゆっくり誰かのパートナーになれるように成熟すれば良いんだと思う。
じゃないとね、どっかでいびつだったり不平等な関係になってしまうと思う。 コミットメントと執着の違いが分からなくなりそう。 そういうのってなんか土着で陰気。 幼稚園の頃のお医者さんごっこを密室でしたいっていう欲求を乗り越えられなかった人達の関係になりそうだ。
基本的に社会との絆や関係性が成熟していない者同士がディープなコミットメントを結ぶと関係が内向きになってしまう気がする。 だから若いうちは意識的に外向きでいて、デートを楽しんで、いろんな人にあって、自分の成熟を待ってる方が自分にも、自分の将来のパートナーの為にも良いはずだ。 そういう話しを親友とした。
とりあえず街角の高校生とかがねっとりと陰気にカップルでいる姿を見ると「もっと遊んだ方が良い。 もっと夜遊びして、音楽聞いて踊って、見聞を広げるべきだ」とおせっかいにも思う。 なんかすっごいもったいなく見えるんだもん。
私はこんなんだから、友達もそういうのが多い。 前パーティーで男の子が女に子にだらだらと何かを話し続け、女の子が甲斐甲斐しく聞き続けている姿を見 た私の男友達が「俺ああいうの大っ嫌い。」って言っていて、「お前本当に良い男!」って思ったことがある。 あと友人界隈の名言で「口説く奴は嫌いだ。 告白がいい。」ってのもある。 flirtは大好きだけど、口説くとかって、あああ゛、陰気すぎ、土着すぎ。
ある程度の歳になったら、きちんとしたパートナーシップを持つのは良い事だと思う。 でも基本的には若い時にいっぱいデートして、いっぱい遊んだ奴の方が良いパートナーやら友人になる気がするから、焦らず遊んだ方が良いと思う。 それこそ遊び疲れるまで。 精神年齢っててんでバラバラだから何歳だったどうって断言は出来ないけど、だからこそ余計に成熟している子のスピードにそうじゃない子がついていこうとしてめんどくさい事になっているってのがあるんじゃないかと思う。 なんかなあ…、そういうのって楽しくなさそう。
とりあえず、日本のポップカルチャー的恋愛観は分からないし、やりたくないし、やりたいひとは周りの子にペアプレッシャーをかけないぐらいに成熟してほしいよねってのがまとめでした。 曾根崎心中的というか情死的というか、そういう魂のちぎり合いを自分の実力とかキャパシティーってのを無視して重視する文化には関わらないでおこうと思う。
ちょっとした偶然 その2
親友のシオネちゃんと6年前遊んでいた時、「私のゼミですごい雄弁な人がいる」って話しをしていた。 当時の私たちは大学一年生で「大学にはいろんな人がいるんだなあ」って話しの一環だったと思う。 なんかそれが印象的で記憶に残っていたから、仕事のクライアントの雄弁さに「ああ、まるでシオネちゃんが言っていた人のようだ」と思った。 そのクライアントが大学を転校していて、以前シオネちゃんと同じ大学に行っていたと聞いた時に、もしやと思ってはいたのだけど、そのもしやでご本人だった。 六年前の私はまさかその後3年近く一緒に仕事をする相手の噂話を聞いているとは思っていなかった。 ちょっとした偶然。
ライブの帰り、駅のホームで終電を待ちながら、小腹が好いたのでスシを立ち食いしていた。 その姿が面白かったらしく、若いお兄ちゃんに「お茶飲みますか?」と彼のペットボトルのお茶を薦められた。 おお、人情@品川駅と感動。 電車の中で色々と話して友達になった。 そうしたら私がずっと使っていたニュージーランドで使っていたソフトの開発者さんであり、なおかつ今の仕事相手が一緒だと分かった。 とりあえず、そのソフトに関してのお礼を言う。 そして、仕事相手の悪口を軽く一緒に言えて、その年の鬱憤をはらした。 彼の会社は長野にある日本企業。 私のはニュージーランド企業。 取引先はカリフォルニアにあるアメリカ企業。 うーん…、グローバル化ってやつなのね。 驚いた。
おとうと ちょっとした偶然
ううう…、このイラストレーター天才だと、作者を調べたら中学のクラスメイト松本春野ちゃんだった。 最近のブログのテーマ、「同世代の感受性ってすごいよね」は、ついに「同級生/クラスメイト、名前の順前後ろってすごいよね」っていうすごい極地までたどり着いてしまった。 「春野じゃんっ!!!」とあわわわわ。 たまたま昨日彼女の話しを、他のクラスの子と話していたので余計に驚いた。 思春期の影響って…、計り知れない。
彼女が中学を転校してから会ってなかったんだけど、大学で再会した。 そして今は作品を通じてまた出会った感じ。 すごいよ! かっこ良すぎるぞ。
Open Reel Ensemble
Open Reel Ensembleは今日本で一番私が好き/気になっているミュージシャンの子たち。 別に音色とか世界観が私好みとかってのじゃなくて、どっちかっていうと技術的な発想がとても好き。
anyway, Open Reel Ensembleは絶対一回は見た方が良いと思う。 25歳の私の感覚からするとthe 同世代。 パフォーマンスに出てくるボキャブラリーが全部分かる感じ。 でも組み合わせが「思いもつかなかった!!」って感じのばっかり。 すっごい。
彼らは名前の通りOpen reelに音をその場で録音し、そしてそれを演奏し、いろいろな形でその音質を加工し、リズムを作って行く。 またiPhoneを使ってデジタルにもコントロールを音質に与えている。 そして何よりもスーパーフィジカル。 機材が結構でかいから、全身使って演奏する。 もう、そこに私、きゅんきゅん! 友達の間で Open Reel Ensembleは今年ぐわーっと人気が広がったんだけど、先に見た子から「動きにクラクラするから、楽しんできて」と言われていた。 本当にその通りだったよ!!
彼らはダウナーじゃない。 でもキャピキャピしていない。 すっごい「そのまんま」感が美しい。 多分フェイク感が少ない人達が私は好きなんだな。 なんかすっごい正直な気がするんだよ。
とりあえず、彼らのチャーミングなブログはここから。 彼らは音をその場で録音して、再生して、それをその場で加工して行き、どんどんと音を重ね合わせて行くプロセスを通して音楽を作る。 これって私の連れ合いもいつもやるんだけど、最近過熱した方法なのかな? それとも伝統的なプロセス?
同じイベントで作品を発表していた劇作家の柴幸男君も演劇そのものをそのプロセスで作っていた。(この柴幸男君の作品もすごい良かった。 私の二歳上の子。 この子も怖いぐらいに同世代。) 録音と反復とその音の重ね合わせと構成によるストーリー展開。 すっごい良かった。 彼のインタビューを読んだ時に「Adobeのソフトを使った時のような作り方」って話しをしていて、以前私が思っていた、音楽制作ソフトとグラフィックス制作ソフトのコンセプト
の類似、その中で特にレイヤーっていうコンセプトが現在制作されている物の性格を結構決定しているよなってのが、演劇でもそうだったのかと驚いた。 多分私たち世代は、レイヤーって機能が好きなのだ。
大学で技術の進化に伴う作品の変化についての授業をうけたことがある。 例えば今イラレとかCADで使われるペジェ曲線の発明が、どれだけデザインを変えたかとかって話し。 デザインや建築でゴシックリバイバルが生じた理由の一つはペジェ曲線の発明らしい。 なんでだか分からないけど、超ディープに観察するとペジェ曲線ってドゥルーズの襞の話しまで行けるらしい。 そりゃこじつけだと思って真剣に聞くのをやめたけど、授業の主題であった、技術の発明とそれに伴う表現の変化ってのは、いつでもビビッドで面白い話題だ。 本当に、たまに「私はペジェ曲線とレイヤーだけで作品を作っている…」って思う事あるもんなぁ。 これが時代からの制約なんだよね。
そういえばさ、Open Reel Ensembleの面白い所は「発明」に対する喜びに満ちあふれているからだと思う。 それがかれらの透明性とか朗らかさを支えていると思う。 アナログ機材を身体を使って踊るようにコントロールする事、デジタル機材を使ったそれの制御、全てに小さな発明が溢れている。 私はそういう作品がとても好きだ。
あとその晩は contact Gonzo×姫野さやか(from にせんねんもんだい)の「ddddddddd!! ccoonnttaaccttggoonnzzoo!!!!!!!!」がファンタスティックだった。 姫野さやか、奇才。 クール過ぎ。 殆どあっけにとられた。 客席に背を向ける形で演奏したんだけど、ドラムを叩く人の後ろ姿のすごさを始めて知った。 後上にも書いたけど、柴幸男「反復かつ連続」が完成度すごく高くて良かった。
夜遊びってすっごい楽しい!
ゆらゆら帝国のライブに行ってきたぞ。 良かったぞ!
来てた子達の雰囲気も最高にダウナーでまさに私の好きな東京の普通の夜だった。 シャイだけどワイルド。 私は体力もあるし、ある程度情熱的だし、元気だってあるけど、なぜか総合的にはダウナーな人間なのだと思う。 少なくともアッパーじゃない。 声やらテンションやらが"高い"っていう状態が好きじゃない。 って事でゆらゆら帝国の提供してくれた音楽世界は私にとって最高だった。 いやー、本当に良かった。
そういえば前座のバンド、ヘアスタイリスティックス(中原昌也)のドラムがにせんねんもんだいの女の子だった。 彼女の演奏はこの間原宿でも見た。 彼女って本当にジーニアスね。 惚れちゃう。 いつかにせんねんもんだいそのもののパフォーマンスも見てみたい。 ヘアスタイリスティックスは変態音楽でよくわからんかった。
ゆら帝の演奏最中、横にいた男の子が彼女の横で躍り狂ってて好感度大だった。 私が彼の彼女ならうっとりしちゃうな。 結構長身大柄がっしりした子で、長髪のクルクルパーマを歌舞伎のように振り乱しながら、彼女の手を取ったりしながらガンガン踊っててさ、彼女も唇がふっくらとした美女で、いやー、愛だったわ。 すっごい良い夜なんだろーなーと思ってうらやましく見ていた。 恋人とゆらゆら帝国のライブ行って、一緒に踊って、(多分、きっと)一緒に家に帰る年末って最高じゃない? ラブだよ、ラブ。 しかも2人ともダウナーだったし。 完全だねと思いながら見ていた。
そして踊っている子達を見ながら、台湾での夜遊びを思い出した。 クリスマスの夜に台湾のバーで呑んでいた時、一瞬一緒に行っていた女の子が踊った。 それが本当に可愛くてさー、本当にちょっとの間彼女が肩を揺らしていただけなんだけど、台湾旅行の中で一番強烈に記憶に残っている。 踊る子は宝だ。
今回の日本トリップでは展覧会とか音楽とか結構色々行っているんだけど、今のところ大きなはずれは無し。 この幸運に酔いしれてるわ、私。
2009-12-30
良い事
私の恋人はミュージシャンで、親友は芸術家だ。 これはかなり幸運だと思う。 運、これで使い果たした気がする。
日NZ生活リズムの差
私の日本の友人の間でもっとも忙しいだろう人と忘年会をした。 コアなレベルでの価値観とかは共有しているし、笑いのセンスとかも近いからとても良い友達だし大好きだけど、お互いの日常生活は笑えるぐらいに違う。 お互いの生活がシュールリアリズムのように感じられた。
彼女が属するのは働きマンの世界。 私がいるのはノンタン。 多分、それぐらいに違う。
性格はノンタンの世界に属する私の方がキツいし刺々しく、ムーミンのキャラクターで言えばミー、そして若干鼻兎的だと思う。 彼女の方がもっとマイルドで、ミムラ姉さん系。 でも生き方になると違うのね。 いやー、不思議だ。
彼女は週末返上で始発終電って勢いで働いている。 私は完全に九時五時。(本当は家に早く帰りたいので、八時四時にしている。) 労働時間は結構人生をコントロールする。 例えば私の場合家に着くのが5時過ぎなので少なくとも就寝時間まで7時間ぐらいはある。 だから家にいる記憶があるし、その間何かをして時間をつぶしている。
彼女の場合、家にいる記憶はないんだそうだ。 家には寝に帰るって生活だ。 日常の中で、固まりとして一番大きい時間は労働時間なので、それのボニュームによって人生のリズムが決まるんだなあと話しながら考えた。 結果彼女は日常で使っている時間が長い仕事関係の話しが多くなるし、私は家にいる時間の方が長いから何となくプライベートでの話しが多い。
これは日本とニュージーランドの国民性の違いなのかもしれない。 ノンタンな国、ニュージーランドでは仕事量を減らす事が仕事だと思っているんだと思う。 仕事をしていない時間を増やす為に工業化したし、分業するし、効率化を計る。 生きていくために必要な量のお金をいかに短い間で稼げたら良い仕事をしたってことになるんだと思う。
日本のモチベーションはなんなんだろうか。 それこそ「仕事したって思って死にたい」ってやつだと思う。 彼女の仕事への情熱はすごい。
ただなんとなく、日本の会社ではどうしてそんなに労働をしなくては処理できな/利益の上がらない効率の悪い仕事を経営陣達が選ぶのかが、私からしてみると不思議だ。 その事を父に家に帰ってから話したら、「今多くの会社は仕事は選べなくて、小さな仕事を沢山やって景気が回復するのを待つって感じなんだよ」と言われた。 そういう事なのかなあ。 根本的なところで、仕事場にいる時間が人生のプレミアムタイムっていう感覚があるからなんじゃないかと私は思うのだけどな。
そう、彼女からは結構純粋な仕事への尊敬の念を感じられたのだ。 彼女の価値観の中で仕事をするってのスーパー、ハイパー尊い事なんだよね。 話を聞いていると何となく私ももっと働かなくては人生を損しているのではないかという疑問が湧いてくる。
2009-12-29
台湾!
2009-12-28
2009年の9曲 3.Animal Collective -My girl
この歌は女の子の心だけじゃなくて、男の子の心もロックするらしい。 これを流すと家中の男子が大合唱をする。 多分そのとき奴らの中で奴らは超男。 「おれ、まじで漢!」って感じで歌い上げている。 いとおしいじゃないかぁ。 いい曲だあ。 父ちゃんの墓前でって所に本気さを感じるね。
2009年の9曲 2.Battles -Atlas
このプレイヤーから聞く方が、youtubeよりも音質がいいので、もしお時間がございましたら流してみてください。 全部、すっごい良い曲だから! 間違えなく素晴らしい楽曲。 でも良いライブの映像とかは下でyoutubeでも載せるね。 良かったら見てみて。
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2.Battles -Atlas
ブルックリンのバンド、バトルズの名曲。 これもよく聞いた。
最初音質の人工的な響きが好きになれなくて、もっと重厚であったりテクスチャーのある音を出せば良いのにと思って拒否。 でも途中からこの人達は正直に、使っている機材の音を祝福しているのだと思い直して恋に落ちた。 2007年発売のアルバムに今更恋に落ちる。 私、本当に感性が鈍いというか、ださいというか、結構物事をアプリシエイトするまでに時間がかかる。
今ウェリントンで結構大きな草間彌生の回顧展をやっている。 それを見にこの間行ってきた。 友達と彼女の鏡面張りのインスタレーションの中で、この曲を合唱してきた。 ほかの観客も歌っていた。 気分はbattles。 とても楽しかった。 その展覧会の写真が彼女の公式サイトにアップされていたので、興味のある方はどうぞ見てみてください。 弥生ちゃん天才だから! 天才だから見飽きない!! 美術館そのものの外壁も全部ドットで包まれていてすごかった。 町の風景がちょっと歪んでいたよ。
Battlesは結構雄弁というか、考えていることをぺらぺら正直にいうバンドだと思う。 コンセプトであったり、作曲方法など技術的なことをよく話しているのを聞く。 同時に道徳的なこととか人生観とかを言わないとこにも好感。 「これは反復する音をどう構築し合うかが主題で挑戦なんだ」とか「主題をいかにダイレクトに届けるかを気にしている」ってタイプのことを聞くと、音楽もデザインも方法とか技術は勿論違うけど、大まかな挑戦は似ているんだなあと思えて興味がわく。
2009-12-22
ピンクのタイツ
彼女の新しいボーイフレンドの話を聞く。 とても素敵そうな人。 写真を見せてもらったら、超長身のフランス人男性が女物のピンクのタイツと白いキャミソールを着て飛び跳ねているお姿がそこに。 「面白そうな人。 面白いのが一番よね。」と返す。 この女、ついに運命の男に出会ったなと思った。 お似合い。
私のボーイフレンドの話しをする。 両耳の穴にネギの根っ子を突っ込んで微笑んでいる写真しか持っておらず、別にまあそれもありかと思ってみせる。 「あらっ、ネギ…??」とつぶやいた後「優しそう。 うん、優しい人が一番よ。 彼、優しいでしょ?」と詰め寄られる。 あっはっは。 誉められる所はそれだけか。 しょうがないか、ネギだし。
ひたすら自分のボーイフレンドを讃える会を続ける。 こういう会話は相手を選ぶ。 でも彼女は揺るぎなく「私の男の子が世界一」って思っているタイプの子なので、こっちがどれだけ自慢を仕様がのろけようがおかまいなしで素晴らしい。 しかも男の子を誉めたり、ほれぼれとしたりするポイントが一緒なので、2人で「きゅん!!」ってなりながら話す。
それにしてもいつまでたってもこの女性はインスピレーショナルで、お洒落で、美しい。 そして滅茶苦茶かっこいい。 イイオンナだなあと思いながら、彼女のピンクのタイツを履いたハイパーな男の子ののろけ話しを聞く。
そういえばさ私のボーイフレンドも私の服を着て、ポーズを決めるのがすごい好きなんだけど、これって普通の事?? たまに私のマークジェイコブスのワンピースとか着て、鏡の前でぼけーっと自分の姿を惚けた様子で眺めているんだけど…、みんなそんなんだよね?
2009-12-21
日本初日
2009-12-20
美味しいご飯
おこぼれを狙う我が犬。 彼女は私に全く興味がない。 私は彼女に興味津々なのに。 つれないのね。
飛行機の中でジュリア&ジュリーを見た。 料理を中心として話しが構成されている映画。 「この映画は父は絶対好きだなあ」と思いながら見ていた。 家についてから、実際家にその映画の中心的題材になっているフランス料理の本と、映画の原作があって笑えた。 このレシピ本はお土産でお父さんに買おうかなあと思いながらも、「持ってそうだよな」と思い躊躇したもの。 そしたら本当に持っていた。 私とお父さんはこういう事ですごく分かり合えている気がする。
連れ合いに「特にご飯の写真を撮ってきて」と言われていたので、何枚か写真におさめる。 私たちは一緒に住んでいる間外食を本当に数える程度にしかしなかった。 それ以外は全部自炊。 一回作ったレシピは二度と使わないっていうルールで料理をしていたので毎回違うものを料理した。 毎日おいしいご飯だった。 勿論お土産のリクエストは日本料理のレシピを頼まれている。 食べるの、大好き。
今日はこれからケイスケと海辺でデート。 こういうとき瑞穂がいないのが寂しい。 多分、またちょっと美味しいものを食べる。 瑞穂の分も食べるよ!
2009-12-17
仕事について
否定はしないが、生産的な場となることを願う
連載を始めた時は、それでもいくばくかの希望的な観測を持っていたし、最初に書いたように、紙のメディアではなく、せっかくこうした場をいただけるなら、むしろネット上での議論は可能か?を見届けたいというのが大きな動機だった。
筆者よりも上の世代は、ほとんどネットに直接的にかかわろうとはしない。石山修武や難波和彦らの日記のように、一方的な情報発信はあっても、インタラク ティブな介入を積極的に試みているのは、福島の元建築家、佐藤敏宏ぐらいだろう。筆者はものを書き始めて、途中からネットの世界が大きくなり、片足を突っ 込みながら、日記、mixi、twitterなど、どのようなかかわり方があり得るかを模索している。おそらく、さらに下の世代は学生の時から洗礼を受 け、もっと本格的に付き合い方を考えていくことになるのだろう。
-中略-
今回の連載では、筆者も匿名のコメントは無視すると述べたが、それでも真面目な議論を横からつつく書き込みを見て、いたたまれなくなった。すべてがそうだとは言わないが、筆者が見る限り、匿名のコメントの方がクオリティは低い。クリエーティブな意見も少ない傾向にある。また議論への意志よりも、悪意に基づくものが散見される。言うまでもないが、匿名はその発言に責任を取る必要がない。だから、言葉に緊張感もないし、思ったまま、悪口も書けるし、言 いたい放題ができる。書き逃げも簡単だ。筆者の信条では、これも言説の自由だから否定はしない。だが、そうしたものに答えないのも自由だ。義務もない。 もっとも、匿名と非匿名が同じ場を共有すると、結局、悪貨は良貨を駆逐してしまう。心ある人は去っていく。
あり余る時間があれば、匿名の書き込みへの応答を考えたかもしれないが、ほかに実りあるやりたいことをいっぱい抱えているなかで、その選択肢はない。あるいは、もっとこちら側に応答するスキルが必要なのかもしれないが、それは不足していた。
とはいえ、この連載は、2009年における失敗の記録としてやった意義はあったと思う。前に踏み出して、試みなければ、成功も失敗もない。そして 匿名者は、個人に帰属する成功も失敗もない。ともあれ、失敗という結果を出したということで、連載の役目は果たした。もっとも、筆者の手には負えなかった が、匿名の議論は不可能、であると、断定するつもりはない。筆者よりも下の世代が、匿名のコメントも巻き込んで想像もしなかったような生産的な場をつくる ことを期待している。もしくは将来、ネットにおける議論の場が成熟すれば、匿名でも読むに堪え得る言説が生まれるかもしれない。
いつか訪れるかもしれない「遠い夜明け」を夢みながら、筆を置く。
仕事柄いろんな国の人達と商売をする。 その際コミュニケーションの質が結構重要なものになる。
クリスマス食
っが、良い人だろうが大好きな連れ合いの親だろうが、面白いか面白くないかってなると話は別だ。 そう、往々にして良い人は大抵退屈。 愛情深い良い人達は、それ故に若干つまらないのだ。 もうこれ宇宙の真理。 ってことで結構何かに誘われてものらりくらりとかわしていた。 本当に良い人達でそこのところはノーダウトなんだけど、なーんか一緒に過ごすと自分の中の何かが飽きるので。 でもそんな自分に酷いなあと呆れ、対策を一応考えた。 もしかしたらこれから長い付き合いになるかもしれない相手だし、得ていて損するスキルじゃない。
ってことでこれが一年かけて実行した対策。
1.自分にも相手にも急激な変化は望まない
大抵失敗するしリバウンドがあるから。 コンクルージョンに飛びつかず、淡々と構える。
2.だんだんと自分の性格も良くし、相手の牧歌的世界感に適応する
笑えるとか、刺激的だとかっての意外の価値観を知る。
3.相手にも努力してもらう
相手の方が長く生きている訳だし、私よりも良いアイディアを思い浮かんでくれるだろう。
4.全く何も演技しない/自分の親に対してと同じ位に素直に接する
ぶりっ子をしてまで好かれたい相手じゃないし、もし演技している面が好かれても長期的に考えていい事が無いので。 これは会社の上司との違いだね。
3.にある相手側の努力は「食事で釣れ」だ。 お酒が入ると神経質な所が取れて、若干気楽で楽しい人になる私の特性をよく見抜いた選択だと思う。 飲みながら食事ってのがお互いの妥協点だと相手側が悟ったようだ。 実際その通り。 ってことで最近は外食+お酒ってパターンが多い。
そして驚くべき事に昨日の食事はすごい楽しかった。 お互いに対して若干働きかけた結果が見えた気がするよ。 達成感!!
彼からすると、大好きな両親と弟妹と恋人とご飯を食べれる訳だからとても幸せそうだった。 良かった良かった。
メリークリスマス!!
2009-12-15
2009年の9曲 1.Wolf Parade -I'll Believe In Anything
このプレイヤーから聞く方が、youtubeよりも音質がいいので、もしお時間がございましたら流してみてください。 全部、すっごい良い曲だから! 間違えなく素晴らしい楽曲。 でも良いライブの映像とかは下でyoutubeでも載せるね。 良かったら見てみて。
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1.Wolf Parade -I'll Believe In Anything
2005年に出たアルバムからの曲で、その頃からずっと聴いていた曲。 特に去年の年末から今年にかけて一日に何回も何回も聞いていた。 こんなにぱっきりと最近の自分の感じとシンクロしている音楽はないと思った。 4年間かけて自分の中で育った。
2004年らへんの頃、現代美術でだと、
-チラチラとオプティカルな物
-内側から発光するもの
-外からの光を吸収したり受け流したりできるように透明感のある物
-小さな構成要素がランダムに、しかし建設的に積み重なっている物
-仮設的な物
-断片的な物
-終わりと始まりの無い物
などが美しいと思っていた。
その頃の美術は、ポストモダンアートについてのマター、脱構築されたフェミニズムについてのマター、未成年の感性についてのマターとかが多く語られていた。 それら関心の対象を直接的にかなりナラティブな形に落とし込んで話すか、それとも形や配置により生ずるアレゴリーによってアクトするかの違いが際立っていて、とても面白い時期だった。
私は、言葉よりも形で世界を理解したいと思う方なのだと思う。 言葉抜きで物事が理解できるかという突っ込みがあるのは分かるけど、私は近代美術の父であるセザンヌの「世界は円柱・円錐・球によって構成されている」ってのを素直にプリンシパルとしている。 私が何かとふれあう時に、まず最初に関わる側面は形だ。
だからだろう、オロツコやフリードマン達が行った彫刻の復権が美術の潮流に大きく混ざり込んだ2000年代初期の現代美術は私にとって非常に、生々しくエンゲージできるものだった。
私にとって、形は最も優れた表現者で、アイディアをアクトし、コミュニケートしてくる。 私は反応せずにはいられない。
音楽も立体的な形を音で作っているっていう意味で彫刻的なものだなあと最近思う。 私は唄とか歌詞よりも、どうやって音が組重なっているか、いつ音がなっていつ音が鳴らないかってのが気になる。 そして音や構成がよってどうやって動くかも興味がある。 対立がどうやって壊れるか、どこに静寂があるのか、どこに次に繋がる空間の隙間があるのか…。 音の形とか立体感とか、音によって作られる空間性とかにぞくぞくする。
実際、なんか頭の中に、体感的には"目の前に"、色や形が見えるんだ。 始めてこの曲を聞いたときはスピーカーから何千匹もオオカミが飛び出してくるのが見えた。 結構そのものズバリ蔡國強の作品みたいだった。(多分どっかでバンドの名前がオオカミに関係しているってのを無意識で知ってたんだと思う。 安心して、私超能力者とかじゃないから。) 馬鹿みたいなコメントだけど、生まれて始めてこんなに沢山オオカミが飛び出してくるのを感じた。 それはそれは見事な構成だった。
話は戻って、私が04年頃に好きだった要素は勿論時間が断つにつれてちょっとづつ変わっていった。 ある程度成熟や、暴力性、若干の虚脱感や無力感、そして切り詰めがおこった。 20代前半は思っていた以上にタフだった! 村上春樹が昔「20代前半は不安だったし大変だった。 二度と戻りたくない」的な事を言っていた意味が分かったよ。 大人って簡単にはなれないんだなと実感。 多分音楽って救済なんだろう。 もろにそれに対する解決を音に求めた。
その自分の変化と上手くかみ合って、昔と今をばっちりとつなげたのが、Wolf Paradeがやっていた音楽(特にライブでのパフォーマンス)なんだろうなと思う。
チラチラはザラザラというオプに変わった。 内側からの発光はより強くなった。 透明感の密度には決して明けない真夜中の弾力が加わった。 小さな構成要素は最低限以外は勝手に誰かに捨てられた。 仮設的な物はただ壊れた。 始まりは無かったけど、見事に終った。
ちょっと悲観的なんだけど、「この音楽が好き!」って感動したり喜んだりできる位、実際のところはすっごい楽観的で生命力に溢れている。
2009-12-14
音楽
今年の始め、私はかなりふてくされていた。
2009-12-13
クリスマス イン ザ パーク
そこに35万人集まって、クリスマスを祝う。 世界で一番大きな規模のクリスマスパーティーらしい。 基本的に小さな子供がいる家族向けの野音って感じのイベント。 ライブでいっぱい音楽やって、最後に打ち上げ花火があってって感じ。
こっちは本当に陽気な、夏のクリスマス。 みんなタンクトップに短パン、ビーチサンダルで夏の夜の野外パーティーを楽しむ。 35万人中半分ぐらいは子供。 こんなに大量の子供を一気に公園で見た事が無いのでくらくらする。 子どもたち、踊り狂ってたよ。 子どもたちがマジでロックしている姿が微笑ましい、そんなイベント。
ちなみにこのパーティーのスポンサーは写真からも分かるようにコカコーラ。 ちなみにこの写真もコーラが作ったオフィシャルサイトから拝借。 見事にいつでもちゃんと御社のロゴが画面に収まっている所に技を感じるよ。 三十秒に一回ぐらい、その社名がなんだかの形で言われてた。 屋台もコーラのが多い。
今私達がこういう姿だと思っているサンタって、コカコーラの広告からだっていうじゃん。 実際はコーラの広告でサンタのイメージが描かれる前にも、結構赤い服を着た小太りなおっさんって形で表現されていたらしいんだけど、ここまで普及したのはコーラの広告かららしい。 結構コーラ=サンタ。 なのでこの巨大なパーティーのオーガナイザーがコークなのも、その歴史をふまえると実に納得。 もー、サンタもコーラも、会場も真っ赤。 ドメインは、真っ赤で白いしゅわしゅわした感じがあふれている、コーラとサンタ色に染まり上がっていた。 圧巻。
最後に大音量でマイケルジャクソンが流れて、どでかい打ち上げ花火がガンガンあがった。 やっぱ今年はマイケルなのねと感慨深く聞く。 夏の夜の公園で、打ち上げ花火とともに大音量で流れる音楽としては最強だと思う。 気持ちよさとか、盛り上がりかたとか半端じゃない。 マイケルはパーティー音楽が良い。 大音量で気持ちよく聞くに越した事が無いと実感。 彼の楽曲には陰鬱な面が強いセンチメンタルな好かれかたもされやすい音楽も多いけど、私はそういう作品よりもグルーブたっぷりのパーティー音楽の方が好きだ。 そこから彼の天才を感じる。 なんか、その流れてきたら踊りだしたくなるっていう単純さを忘れたくない。
最高に大きくて綺麗な打ち上げ花火と共に聞く、Don't Stop 'Til You Get Enoughとかもう完全にゴージャス。 可能な限り大音量で、どんな音楽よりもずっとずっと音量上げて聞いてみて。 「すっげー!」ってなるから! マイケルの踊りを誉める人は多いし、実際すごいなって思うけど、私はそれよりもマイケルの音楽を聞いて、すっげー楽しそうに踊りだすみんなに感動する。 上手く言えないけど、彼もすごいけど、彼に反応する人達の、心の中の何かに結構感動するんだよね。 ちょっと野性的な感じするじゃん。
とりあえず、メリークリスマス!!
プレゼント
私は冠婚葬祭にはあまり関与しない家族で育ち、そういうコンヴェンショナルな行為は、年賀状のお返しとして正月の後に出す葉書ぐらいしか関わった事が無い。(実際、毎年家族は1月1日に届くように年賀状を準備しようとはするのだけど、結局投函するのは成人式を余裕で過ぎたぐらいの時期になる。 我が家は不器用なのだ。)
でも個人的に私は人に贈り物をするのは好き。 なので近い人の誕生日はある程度きっちりとお祝いする事にしていた。 誰かが産まれた日ってのが好きなのだ。 すごいワンダフルな事に思える。 なので勿論出産とかされると、その子の人生、そしてその子の両親の人生をひっくるめてお祝いしたくてたまらなくなる。 多分、誕生系フェチ。
なのでミュゼッタの為のプレゼントを彼女が産まれた日からずっと探していた。 その間ずっと連れ合いをオークランド中のベビー関連のお店につれ回し、やっとこさ完全に自分が納得した物を見つけた。 何たる偉業。 何たる達成感。
しかし「もう僕は当分ベビー関係のお店には入りたくない。 この別世界な感じがダメ。 怖い。 なんだか僕は怖くなるんだ!」と最後にぶつぶつ言われ、かつんと来た。 次に妊娠した友達と、彼女のパートナーの為のプレゼントを買いにいく事になっていたので、ここでくじけられたら困るのだ。 一人で買物をしてもつまらないのだ。
なので「どうして、私の友達の出産が祝福できないのか。 それは私のウーマンフッドが喜べてないってことなのではないでしょうか。 私が女性であって、私の周りに女性の友達がいて、その人達が女性的な事をしているってのを祝福できていないのではないかしら!! それって私寂しい!」と、筋が通ってるんだか通ってないんだか分からない事を言って、相手を混乱させて次のお店に行こうとしかけた。
そうしたらそういう私の訳の分からない説得方法に慣れている相手に「付き合っている時点でこれ以上に無いぐらいにあんたの女性性は祝福してる。 かなり核心を突いて祝福してるね。」とごもっともな御言葉をかけられる。 「っち、弁の立つ奴だ…」と思いながらも、「じゃあ違う言い方をする。 私の人生を豊かにしてくれている友達のお祝いを一緒にしないで、何が連れ合い?」ともっとシンプルに言ったら納得された。
「そりゃそうだ」って事で、次は妊婦とその恋人へのプレゼント探しへ旅立った。(多分、この連れ合いのやる気をなだめすかすプロセスが、プレゼント探しの醍醐味の一つなのだと思う。 連れ合いの家族へのクリスマスプレゼント探しという、私からしたら本当にどうでも良い事につれ回された際に、相手の言放った詭弁達は実にすごかった。)
「お父さんになる人って何をもらったら嬉しいのかな。 私としては、妻子から絶対に逃げれないように、鉄の鎖のような強固な義務感を植え付ける教育的な物を渡したいのだけれども。」と言ったら「いや、僕は一瞬でも妻子という義務感から現実逃避が出来て、少年に心が戻れる物を渡すのが良いと思う。 テレビゲームとか!!」と言われ、二人で大笑い。 「だよねー」ってお互い言いあい、お互いの意見に納得してしまったので、また選ぶのが難しくなった。
永遠とそういう事を繰り返して、やっとこさ、色々と買いそろえる。
お互いの為のプレゼントも買う。 カードも書く。 ラッピングしまくる。 ああ、年末。 ああ、子供時代は遠くなりけり。 イノセントに「私そういうの加担しない」って言えていたあの頃。 でももらえる物はもらっとった。
しかし、そんな子供時代を失った事よりも、自分がある程度成熟し、プレゼントを贈れる人がいることの方が素朴に嬉しい。 連れ合いと連名で贈る相手がいる事、そして一人で贈る相手がいる事、その中には旧い友人も、今年に入って知り合った人友人もいる。 結構良い人生じゃないかと思える。
そして贅沢な物は送れないけど、何かを買えるだけのお金を手に入れた事もうれしい。 自分の稼いだお金をこういう好意の表明や、渡し合う時に心からの愛情と笑いが溢れた時間に使えるんだって実感は良い。 結構「社会人一年目を君は頑張った!」って自分の肩を自分でおめでとうって、ポンポンとしてあげたくなるよ。 感謝の気持ちが湧く。 年末の醍醐味を感じるわ。
うざい、そして頑なで一元的な無神論者として友人の間では煙違われている私ですが、クリスマスにおけるある面は好きです。 際立った年中行事だと思う。
っていうことで、まだはやいですがクリスマスの12のことばを。
もしも、あなたが悲しんでいるなら、喜びなさい
クリスマスは喜びだから
もしも、あなたに敵があるなら、和解しなさい
クリスマスは平和だから
もしも、あなたが傲慢であるなら、低くなりなさい
クリスマスはけんそんだから
もしも、あなたに負債があるなら、弁済しなさい
クリスマスは正義だから
もしも、あなたに罪があるなら、悔い改めなさい
クリスマスは恵みだから
もしも、あなたが暗闇に沈んでいるなら、灯をともしなさい
クリスマスは光だから
もしも、あなたが心得違いをしているなら、反省しなさい
クリスマスは真実だから
もしも、あなたが心に恨みを抱いているなら、捨てなさい
クリスマスは愛だから
もしも、あなたが絶望をしているなら、キリストに目を向けなさい
クリスマスは希望だから
もしも、あなたに友人がいるなら、探し出しなさい
クリスマスは再会であるから
もしもあなたに愛する人がいるなら、愛を告げなさい
クリスマスは肯定だから
もしも、あなたの身の回りに貧しい人がいるなら、助けなさい
クリスマスは贈り物だから
良い日曜日の夜を!
2009-12-11
decade
10年前の事を昨日の事のように思い出せる年代になったと思うと感慨深い。 その頃私はイギリスに住んでいて、かの国はやけにミレニアムミレニアムと騒いでいた。 橋が出来たり、その橋が異常に揺れたり、観覧車が出来たり、花火があがったりしていた。 そして2000年の後半からニュージーランドに引っ越した。 私の00年代はニュージーランドのと重なる。
自分にとっては無色透明。 未来の人達から見たら、多くの、ほとんど全ての時期がそうなように非常に変な時期。
ーーーーーー
今イギリスに住んでいる友達と、80年代リバイバルについて話していた。 日本の感覚だと80年代は多分、諸悪の根源的な扱いで見苦しい年代なんだろうと思う。 だから80年代のクールネスにあんまり反応できないっていう話だった。 さっきたまたま読んでいた、高橋瑞木さん(水戸芸術館現代美術センター学芸員)の文章、「不可能性の時代」のアート:諸行無常のポストモダニズムにおける実存の試みでも日本の80年代の独特さが書かれている。
社会学者の見田宗介はバブル経済の繁栄を享受し、高度消費社会に向けて邁進した日本の80年代を「虚構の時代」と呼び(注1)、それを受けて大澤真 幸はバブル経済崩壊、阪神淡路大震災、そしてオウム真理教による地下鉄サリン事件など、自然と人災によって脆弱な社会構造が露呈し、人びとがアパシー状態 に陥った90年代を「不可能性の時代」と呼ぶ。(注2)その「不可能性の時代」に成人を迎えた世代を、世間では「ロストジェネレーション」と呼ぶそうだ。 中略確かに読んでいると凄まじい。 地獄の業火に焼かれるように苦しい神経症の始まりの太鼓がたたかれたって感じだ…。ベルリンの壁の崩壊から、バブル経済の崩壊、阪神淡路大震災、オ ウム真理教の地下鉄サリン事件、そしてアメリカで勃発した同時多発テロからイラク戦争と、国内外の社会の混乱は言うまでもなく日本人の精神構造に作用した が、とりわけ視覚芸術家にとって強いイメージを刻印したのは、おそらくその後に目の当たりにした破壊の光景の数々ではないだろうか。阪神淡路大震災での家 屋や高速道路の倒壊現場や(注3)飛行機の衝突後にワールドトレードセンターが白い煙をあげて倒壊してゆく様子、そしてアフガニスタンのタリバーンによる バーミヤン石窟の大仏爆破の場面などがそれだ。その中でも日系アメリカ人、ミノル・ヤマサキ設計のワールドトレードセンターは近代化が生んだ国際様式の代 表的建築、バーミヤン石窟の大仏は歴史的に重要な文化遺産として知られ、どちらとも公に保護されるべきものでこそあれ、人為的に破壊されるべき対象とは誰 の思いもよらなかっただろう。このとき人々は、これまで蓄積された人智、理念、様式、技術、歴史が保護され、未来に伝承されるべきだという意識化の共同倫 理が、自分たちと同時代に生きる人間の手によって灰燼に帰した瞬間を目撃し、記憶したのである。
でも文章で「日本の80年代」って特定されているように、よそにはよその80年代があったんだよね。 そこに思いを馳せるのも大切な気がする。 だって、自分の中に流れる歴史性って絶対に一つの側面(例えば日本で起こった“事件史”)だけで形成されている分けないもん。 そこだけに焦点を当てると、自分の中にある面白い流れを塞き止めてしまう事になると思う。
私にとっての80年代って音楽の時代だ。 後遺症には関わっているけど、バブルの時期にあった文化そのものにはあまり影響されていない。 でも、80年代の音楽には今でも強烈に影響されている。 で、多分それがイギリス文化圏とかにいる私たちの世代の特徴で、だから80年代リバイバルが強烈にあるんじゃないかっていう話をした。 70年代の最後にピストルズが解散して、次の世代の音楽(ピストルズのライブにいた42人の人達の音楽)が始まる。 それでJoy Divisionがあって、そのバンドがレイブカルチャーに直接関わっていく。 パンクからレイブ、ニューウェーブに流れていくその系譜が、今20代の人達からすると、ほとんど自分たちの今いる立ち位置の神話的な起源のようにうつるんじゃないかと思う。 思春期入りたての、一番自分に影響を与える音楽の起源が、自分に取っての聖なる音楽になるのかも。 少なくとも自分の事を考えてみると結構そうだ。 その時期のクールネスが発展した先に自分がいるのを結構ダイレクトに感じる。 年上の子たちが夜遊びをした後、ちょっと疲れた感じを持ちながら、昼間はティルマンス的な時間の過ごし方をしていたのを憶えている。 そういう時間に入れてもらえると嬉しかった。 自分は入れない夜のワイルドさがあるのも知っていた。 そこが憧れの先なのだろう。
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さて、00年代が終る事について書いていたブログには、同世代の作家の台頭についても書いてあった。 自分にとって自然な言葉で喋る人達が、表現者として出てきている。 背伸びの対象でも、新しさを求める先にでもなく、自分自身の身の丈とあった、今日の言葉を聞くようになってきた。
次の10年は自分の10年になるだろう。 子供とか孫に「アンナは10年代に色々やってた人だからああなんだよ。 ださいねー/面白いねー」って2040年位に言われるんだろうと思う。
だから良い服をきて、良い音楽を聴いて、良い作品に触れて、正直な言葉を沢山喋ろうと思う。 楽しみだ。
2009-12-10
EATING ANIMALS
公式サイトも結構面白い。
この作家は77年生まれなので、かなり同世代感が近い。 同じような事を同じように悩んでいて、似たような価値観を持っている。 この激しくしっくりくる感じに、同世代の作家の台頭の力強さを感じる。 これからもっともっと自分の世代の言葉が世の中で使われていくんだろうなと思うと感慨深い。 最近肉食(及び食事)について友達とよく話したり考えたりしていたので、一番のお気に入りの作家の新刊がまさにそれについてだった事に驚いたと同時に「やっぱりね」感が強い。 こういう偶然とか重なりあいがなかったら、日常における勇気の何割方かはなくなっちゃうだろうね。
GoodBye Penny
多分私と連れ合いは来年には同居も解消して、結構淡々とした関係になると思う。 恋人と一緒に住んだのは生まれて始めてで、一年間最高に幸せだったし楽しかった。 沢山支えてもらったし、多分私も相手に対して何か温かい事が出来ただろうと思う。 こんなに毎日幸せに、親密に、温かく過ごせたのは、相手の愛情深さと無邪気さのおかげだ。 本当に極上の真珠みたいな男の子だと思う。 いつかは真珠のような男の子と恋に落ちたいものだと思っていたので、まさに願ったり叶ったりだ。
彼との友情は、なんか毎日自分が新品に生まれ変わり続けるような経験を与えてくれた。 毎日毎日、何かが綺麗に、整っていく感じがした。
お互いこんなに日常と人生を誰かと重ねあわせたり、寄り添わしたりしたのは始めてで、二人で「人と人が一緒に人生を過ごす事や協力しあう事、愛し合う事の価値が分かった。」と言いあった。 こんなに素敵な事を知るきっかけになった人が、こんなに素敵な人であるってことは、多分私の人生におけるきわめて幸福な事の一つだと思う。
でも、まあ、だからって別にずっと恋愛感情が続く訳でも、何か絶対的な感情に繋がる訳じゃない。 相手との関係から、春の萌黄や、夏への扉を感じ始めた事で、今度は違う所で、違う形で頑張ってみようと思えるようになってきた。 多分、前よりはしぶとくなったし、粘り強くなったし、そして良い結果を信じたり、素直に幸福を祈ったりできるようになったと思うから。 ってことで感謝の気持ちで山々だ。 秘密がいっぱい詰まったすごく素敵な、温かい時間を一緒に過ごした。 もうこの幸運からの余熱だけで、あたし多分何でも出来る。
寂しいけど、悲しくないのは多分本当に私たちが楽しんだし、お互いに対する友情と愛情が深いからだと思う。 あんまり残念だとも思わない。
ああ、今が初夏で本当に良かった。 生命の息吹を感じるよ。 初夏のニュージーランドの大自然はまさに絶景。 この土地はすごい。
2009-12-07
Animal Collective
興奮押さえきれずグーグルで色々みていたら、なんと日本で一回ゆらゆら帝国と一緒にライブをしていた事を発見。 すっげー、日本すげぇ。 動物がゆらゆら。 最強じゃん。 急にゆらゆら帝国熱が上がり、私が日本に帰っている間にライブがないかを調べた。 あるっ! 12月30日にっ。 速攻で予約。 ああ、人生って素晴らしい…。 その頃に東京にいて、赤ちゃんとか、夫とか、焼き餅焼きの彼女とかがいない場合は、是非御一緒してどんちゃん騒ぎしましょう。 2009年の夜遊び納めだ!
それにしても明日はAnimal Collective. さー、私の事をみんなうらやましがって、「くはー、そこに私/僕もいれたら良いのにっ!」って思ってくれてかまわない!
イーハー!
この曲とか、単純にbeautifulじゃない? 音楽っていい。
2009-12-03
小確幸
弟と妹を溺愛している彼は、物の見事に卒業式で号泣したらしい。 「超マジでお前の事誇りに思うよ、ブラザー!」とかって言いながら弟の胸にひひーんって泣きついたそうだ。(弟の方がガタイも良いし、背も高い。) 大興奮で電話をしてきて、「もう、こんな幸せって無いんじゃないかって思うんだよね!!」と言っていた。 私には血のつながった妹も弟もいないのでそれが泣くほどの事なのかがわからん。 どうなのでしょう、世のお兄ちゃん、お姉ちゃん、末っ子の高校の卒業式は勿論号泣ですか? 私の連れ合いは本当にボロボロ泣いたそうです。
血がつながったのはいないけれども、心の妹弟は沢山いるのが寄宿舎育ちのアドバンテージ。 ってことで、なんとなく友達ってよりももうちょっと温かく、もうちょっと守ってあげたい的な感情を持っている年下の子たちは数人いる。 でも実際の成熟度を考えると、一人なんてもう結婚したし、みんなして私よりずーーーーーーっと大人。 冷静になって考えてみたら、お世話になっていたのは私の方だ…。 ひひーん。 私も年相応な大人になりたいです。
ただ、そんな幼稚な私でも、確かに彼らの事を思うと胸が温かくなるし、とても優しい気持ちになるよ。 愛おしい気持ちになる。 それは同い年の子でも年上の子でも寄宿舎が一緒だった子たちには(大抵)みんなにそう。 相手の幸せをただ祈れるっていう相手がいるのは良い事だ。 ブラザーフッド・シスターフッド万歳!!
2009-12-02
タイヨンダイ・ブラクストン
たしかに素晴らしい。 彼のようにそこまで音楽に熱中するタイプじゃないので、「考えるだけで涙が出る」ってレベルでの感動はしてないけど、「考えるだけで、元気になる」程度にはやられてる。
疲れていたのでベッドでごろごろしながら大音量でただずっとブラクストンの音楽を聞いていた。 この二つの軸が呼応しあう感じ、対立構造がある感じはストラビンスキーみたいだ。 絶対この人堂々とストラビンスキーラバーだと思う。 大抵こうやって二つのタイプの音とか質とかが音楽の中で駆け引きをする楽曲は好きじゃない。 でもそれが逆に面白くなるやりかたがあるみたいで、ブラクストンもストラビンスキーもそれが出来ている気がする。 音楽には全然詳しくないので何とも言えないんだけど、多分こういう駆け引き的な音楽を、「対話の駆け引きをやっているのだぞ」ってドラマティックに意識的に見せつけると、それはそれで許されるのだろう。 そんな事を思いながら、次にストラビンスキーの春の祭典をかけた。
こっちは初夏で昨日の夜は蒸し暑かった。 二人で下着姿でベッドの上にごろっと身を投げ出して、一言も口をきかずにずっと春の祭典を聞いた。 たまに一つの楽曲は、どんな物語を読むよりも、どんな映画を見るよりも、濃厚で豊かな体験を与えてくれる。
私の日常的な態度から、連れ合いは私が好きな音楽はきっとものすごいミニマルでドライな音楽が好きなんだろうと思っていたそうだ。(真夜中にJoy Divisionかけてるのに?!) 春の祭典に対して私が強い思いを持っているのが意外だと驚き続けていた。
パティースミスが以前「どんなジャンルの音楽を聞く人にも愛される楽曲ってある。 例えばストラビンスキーの春の祭典、そしてルー•リードのWalk on the Wild Sideとか」って発言をしていた。 さすがパティー様、確信しか突かない。 本当にその通りだと思う。 「パティー様もそうおっしゃっていた」と言ったら、相手も納得していた。 春の祭典は私の生きている時代の始まりの音楽だと思う。 私たちはまだ春の祭典の演奏中にいる気がする。 だから好き。
その後に、連れ合いのヴァイオリンの練習の為ドビュッシーとラヴェルを聞く。 彼のお気に入りの演奏録音にあわせてヴァイオリンをひく。 生演奏は体にしみる。 私は本も読まないで、ただベッドの上でねっ転がりながら音楽を聞いていた。
自分の中も外も、部屋の空気も、色調も全部が治っていく感じがした。 どんどんと治癒された感じがした。 相手が練習を終えてベッドに飛び込んできた時には、私はこれまで体験した事が無い位にすっきりとして、気持ちがよくなっていた。
2009-12-01
食
http://greenz.jp/2009/11/30/seattle_report_05/;
食に関するプロジェクトをやってみたい。 この記事はすごいインスピレーショナルだった。 良いプロジェクトっていつでもインスピレーショナル。 そうであるかないかが「良いプロジェクト」とそうじゃないプロジェクトの差なのだと思う。