2009-04-11

バルトには決してがっかりさせられない

 好きな人によってころころ変わるのが女という者だろう。 いや、男も変わるな。 この目で見た。 要するに、人は、服装も、考え方も、人生観も結構一緒にいる相手によって変える生き物なのね。 

 以前バルトのメランコリックなウィズダムたっぷりな文章に包まれていないとやってけない相手に思い焦がれていた。 そして最終的に相手は去ったが、バルトは残った。 てっきり、相手への思いとともにバルトへの熱も去るのだろうと思っていたけれどもそんな事は無かった。 バルトへの熱と尊敬は思いの他、深かった。

 人の笑いを取るのが好きなので、友達に「前の恋愛の話しをして」と言われると、思わず浪曲師の様に「闘牛のような恋でありました」と話しはじめてしまう。 「どっちがどっち?」と聞かれるので、「話しを聞いてからそちら側で勝手に決めて下さい…」と答える。 まさかへらへらした日本人のデザイナーの女の子の口から「闘牛」って言葉が出るとは思わないみたいで、その時点で結構笑ってもらえる。

 バルトのテキストの一つにWhat is sport?というのがある。 これは"恋愛のディスクール"において彼が恋愛について饒舌に語ったように、スポーツについてひたすら語っている短いテクストだ。 相変わらず、非常にメランコリックで、美しい、そして死へ真っ正面から立ち向かっている、バルト色炸裂な素敵テキストだ。





 その中で彼はスポーツのアーキタイプに闘牛をあげている。 

 バルトは闘牛のプロセスを数段階に分けて話す。 まず、闘牛士はケープを使い、戦っている牛の事をしる。 遊び、焦らし、避け、自分のルールを示す。 次に闘牛士は槍だけを使い牛との死闘を始める。 その時点ではまだ牛の方が強い。 ただ闘牛士には恐怖心とそれに立ち向かう勇気がある。 牛には無い。 その時点で闘牛士は獣より優れている。 そして闘牛士には牛は知る事の無い知識がある。 闘牛士は牛を知っている。 牛は闘牛士を知らない。 闘牛士にはスタイルがある。 スタイルは難しい動作を徳深い作法に変換させる事を可能とし、乱れを規律し、リズムを構成する。 そして闘牛士は牛に勝つ。

 「私は時たまとんでもない負けず嫌いで、どーでも良い事に競争を持ち込んだり、死闘を演じてしまったりするんだよね。 難しい相手を見たら、ほとんど肝試しの一環としてケープを使って焦らして、相手と遊んで相手を知り、出来る限りに誘惑し、そして相手に立ち向かい、一撃を加えたいと思っちゃうんだ。 以前好きだった人はまさにそんな感じで、ただただ挑戦したい衝動に狩られて、長期戦の闘牛をしたの。 しかも相手も私にそっくりに負けず嫌いだったの。 でも、結局私には深い知識も、強い勇気も意識も無ければスタイルも無かったから、闘牛士のつもりだったけど、実際牛だったのは私なんじゃないかと思えたりもするのよね!結構な衝撃を加えられ続けたし!」と言い切った所で、大笑いしてもらえる。 

 「私、闘牛士のつもりだったけど、もしかしたら牛だったかも宣言」は女の子の口から出てくる言葉として期待していなかったようで、「よくそんな事思いついたね」と感心してもらえる。 バルト、読んでるからね。 

 勿論、それだけじゃなかった。 喧嘩だけじゃなくて、温かさや愛おしさだって溢れていた。 ただ、二人の個性がクラッシュしたとき、闘牛的要素が何よりも全面に出てしまったのだ。 とんだ特徴! ほとんど、記念碑。 いやー、スペシャルだった。 友達にそういう話しをした後に「本当にスペシャルだったなあ!」って思いで胸がいっぱいになる。 「闘牛でスペシャルでした」ってのもとんちんかんなスペシャリティーだけど、本当にそうだったし、何故かその頃の私はその面をつよーーーーく愛してしまっていたし、味わいまくってしまっていたのね。 

 マジでもう二度としたくない奇妙な人生経験だけど、結果として「もしかしたら私は牛だったかも」という疑いとバルトが残った。 結構この感じには満足している。 寂しいけど、満足している。

 決して私をがっかりさせない不思議な作家がいる。 バルトはその中心的な1人だ。 彼を知っていてよかった。 じゃなかったらもっと激しく暗中模索だったと思う。 冗談を言えるような感情の余地すらなかったと思う。 テクストってすごい。 優れた文章を残すって偉大だと彼の偉業を通して思います。 困ったらバルトに聞こう!

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