大学で、ちらっとした関係で仲良くなった子がいる。
「建築なんて、嘘っぱちだ!」と怒り狂って
「でも愛しているんだ」と矛盾を抱え
そんな自分と葛藤して学校を辞めた子。
でも、たまにまだ大学の図書館とかに来ていて
会えば話すし、呑みに行ったりする。
今日、そんな彼にばったり会ったので
夕方からバーで呑んだ。
世界と折り合いがつかないみたいで
永遠と彼の考えている事
おかしいと思う事
素晴らしいと思う事を話してくる。
四分に一回ぐらい
美しいなと思わさせられる事を彼は言い
三分に一回は話しの内容が変わる。
言わずにはいられない事が
山ほどあるんだろう。
懐かしいなと思う。
私からするともう戻りたくはない
数年前の焦燥感や
やり切れなさをまだ彼は抱えているように思う。
もしかしたら
私が通った経緯とは全然違うのかもしれないし
私は彼を甘く見ているのかもしれないんだけど、
それでもその子が言いたい事は分かる気がする。
世界は最悪だし
みんなディックだし
周りは何も分かっていないし
誰も本当に"美しい事"を彼のようには理解していない。
「私はこんなにファンタスティックなのに、
どうして周りは分からないし、ついてこないし、
理解してくれないし、私につられて変化してくれないんだ!」って
なっているんじゃないかと思う。
生きにくいだろうなと他人事だから思える。
たった、二、三歳ぐらい年下の子たちなんだけど
今の私とは立ち位置が違うと感じてしまう。
今年に入ってから
クラスメイトやらが
私が怒れる若者として日本の大学を辞めた時と、
同じような状況にいるのを良く見る。
みんな、怒っているし、
誰も何も分かってないと思っているんだろう。
彼の永遠と続く話しを聞きながら、
私は私の怒りがどこに消えてしまったのだろうと考えてしまった。
カズオイシグロ的な瞬間は訪れたのかと、
懐古的な気分になる。
なんか変だと思っている時に、
ちょっと年上の私が
「あー、あるね、そういう時も」って
言っちゃうからだと思うけど、
本当に多くの友達に、
ぐわーーーーっと、
怒りと希望の入り交じったすっごい話しをされる。
満ち足りなさへの抵抗から、彼らは話すんだろう。
泣きながら「こんな気持ちになった事が無いし、
これから立ち直れるかも分からない。
人生の色彩が変わってしまった。」と言われると、
こっちもちょっと泣きたくなる。
懐かしくて!
私からすると、その色彩はもう失われたものなのに!
でも泣きたくなるけど、すぐに眠くなる。
彼らの話しは美しいけど大抵退屈。
面白いけど刺激はない。
友達としての責任で言い分は聞くし、
同情もするし、
私程度の経験の話しであれば、
捧げようと思うけれども
(具体的な例では、私はその危機感から二つの大学を中退していて、
今三つ目でございます、とか)
途中で、目を開いているのがやっとな気分になる。
だって、単調なんだもの!
単調な辛さが多くの20歳ぐらいの人にとっての辛さなのかもしれない。
様々な辛さが訪れるというよりは、
一個の辛い事が永遠と続く状況なんだろう。
どうしたら良いのと言われると、
一個目が片付いたらそれで終わりとか、
昔に戻れるとかじゃなくて、
もう二度と昔には戻れないし、
今度は複数の辛さに親しみ始める時期が
くるんじゃないかねとしどろもどろに返すしか無い。
「ああ、愛おしいけど迷惑な人達だな」としみじみ思う。
日本の大学にいた時の友達に、
「あんなにめんどくさい人でいてごめん!」と言いたくなる。
ニュージーランドにいるとそういう人に結構会う。
大抵21歳ぐらいがそういう時期っぽい。
私もばっちりそうで、
いてもたってもいられないぐらいに、
全てがペインフルだと思った。
でも、そのときは日本にいたから、
「私だけこんなにおかしいんだ」と悩んだ。
しかし、どうもこれはここの伝統行事っぽい。
なんかあるんだろうここの高校とかに、その要素が。
あまりにもヒッピー過ぎるとか。
人に話さずには自分が脱構築しちゃう。
どうしよう、フランクゲーリー、アウトオブコントロールヴァージョンにになっちゃうよ!っていう「言わずにはいられない危機感」が訪れる文化っぽい。
今更ながら、誰でも通る道だったんだあと思う。
当たり前の事だったんだな…。
21歳ら辺ってとんでもないね!
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