2007-12-29

祈りのように

 ここ数日間はほとんど祈るかのごとく、毎日何本も映画を見ている。 


それにしても、元々は字幕なしで見ていた洋画を、日本語の字幕をつけてみると色々と違う視点に持って行かれる。 


リズムや面白さ、独特のユーモアなんかは大抵なくなってしまうけど、ストーリーに対してある種のコントロールを持って見えるようになる。 ちょっと面白い。


 そして、人といる時もちょっとした祈りがある。 深く息を吸ったときのように、相手の存在を感じたいと思う。 友達とはそうやって遊ぶ。 勿論それは一瞬だけで、すぐに面白さに戻るんだけどさ。


日本に帰ってきてからよくパーティーに行く。 遊ぶのは楽しい。 


ざわざわとした空間にいると心が洗われると思えたりする。 それも一つの祈りだと思う。







この人達、かっこいいね。

2007-12-27

モーツァルトとクジラ


 モーツァルトとクジラを見た。 

アスペルガー症候群を抱えた男女二人がいかに恋に落ち関係性を達成しあっていくかが描かれている映画で、小粒ながら良い映画だった。 「向き合いたい」という気持ちと、「普通」という見えない軸にがんじがらめになっている状態の描写が素晴らしかった。

もう、描写が…、描写が人ごとじゃなくて、本当に途中で何回も心臓が止まるかと思った。 普遍的なものの宝庫な映画な気がする。 本当に「これぞ、私の日々の問題の半分以上を書き出している映画だ」と思った。 とんだリアリティーだよ。 やけに似ている題名の映画イカとクジラに続く名作。 両方とも骨身に沁みる内容で、見ている最中に終始悶えた。 

「ああ、これは私の見ている世界だ」と思える種の映画は貴重だし、そこに芸術の力の側面を感じる。 自分の背中を真後ろから押してくれて、今の自分を少しだけ前に動かしてくれる、そういう映画って意外と少ないよ。  他人事じゃない、って本当に思える事柄ってあんまりなくない? 

あまりにも、日常的に私が難しいと思っている事柄をきちんと書き出してくれている映画なので、周りの人達にも見ていただいて、「どうよ! 君たちも、いつも問題なんてありませんって感じにやってるけど、こういう面だってあるんでしょ?」と確認をとりたい。 (だからって、別に確認し終わった後になれ合いたくはない。 そういう事する奴は大抵ディックだ。)

「普通になりたい」「普通でありたい」と寂しい時に言うと、「普通って何さ?」とか「みんな変だよ」とか言ったり言われたりする。 そしてよくそう考える。 「あー、また変な事しちゃった」って自分で思う時は、勿論「普通って何さ」って思うようにしている。 

ただ、そこには拒否がある気がしてしまう。 

「普通って何さ」っていう発言は、「自分が普通じゃないと思う事自体が高飛車で、理解に苦しむ程に愚かな事だ。なおかつ、致命的にわがままだ。」と聞こえてしまうことがある。 だからちょっと考え込んでしまう。 

目的は人と向かい合う事で、その為に変な事をしてしまった時、自分の不器用さと戦っている人を見た時、どうやって対処したら良いのかはまだ分からない。 でも、「なんかあるぞ。 大丈夫だぞ。 大丈夫だ。」と映画を見た後に思えた。 良い映画だったよ。 心臓が止まりそうになるから、滅多には見れない映画だけど、良い映画だった。 すっごいリアル。

自由だ!

親知らずから生ずる悲劇に巻き込まれた人達が私の周りには多い。 

話を聞くだけで痛い。 

そして、私のも具体的に痛かった。 

でも認めたくないから、いつも「これはイマジネーション、これはたまたま、私が周りの人達からのストーリーで作り上げている幻想。 アンナさん、妄想が過ぎますよ! はい、終了!」ってやっていた。 

私の特技である「直前まで認めない」の実践ですね。 自分でも強く信じ込むから途中からどっからどこまでが自分の洗脳による技か分からなくなる。 

今日は、うずく歯を抱えながら歯科大付属に行って抜歯をしてきた。 口では「まあ、抜いとくと安心だからね。先行投資だよ、あはは。」と言いつつも、びびりにびびって、親に仕事を休んでついてきてもらう。 だって、本心では「あたし完全に死ぬかも!」状態でした。 

本当に本当に怖かったんだよ! 

言っている事とやっている事と思っている事が全くかみ合っていないから周りから見ると何がなんだかって感じなんだけど、怖かったのよ。 だって、多分、結構、親知らずが痛かったっぽいんだもの。

既に失神しそうな気分で診察台に座り、歯茎に麻酔の注射をされる。 緊張のしすぎで心臓がバクバクして看護婦さんに、「体調が変です。」と訴えるも、「あー、注射した時に本当にアンナさん、硬直していたし、息をしていなかったからでしょうね」と言われて、あまり取り入ってもらえなかった。 頭の中では「げーーーー! このまま変になっちゃったらどうしよう」とくらくらしているんだけど、「そうっすか」とクールに過ごす。 

そして麻酔がききはじめるまでちょっと五分ぐらい待っていて下さいと言われたと同時に熟睡し、何か言われているな、誰かが私の口の中に何かを入れているぞと思いつつ眠っていたら全てが終わっていた。 えええ? なんてアンチクライマックス。 もっと、もっとすっごいドラマと極端に痛い目にあうんだと思っていたら、昼寝しているうちに終わってしまった。

先生に「親知らず抜きにきているのに、こんなに診察台で熟睡できるって凄いねえ」と言われる。 「ビビりすぎて寝ちゃいました。 癖なんです。」と言ったら、呆れられた。 そして、別に何も起こらず本当にそのまま終わった。 料金を払い、処方箋を貰い、痛み止めを手に入れ、完了。 

ついてきてくれた母はてっきり私が泣き叫んで、先生と殴り合いの喧嘩をして、口から血をだらだら流しながら出てくるんだと思っていたみたいで、寝ぼけながら出てきた私をみてきょとんとしていた。 あまりにも私が寝ぼけているから全身麻酔でもされたのかと言い、「いや、奥歯の所だけ。 でもこんなに深く寝たのは始めてってぐらいに眠りこけた。」と返事をしたら呆れられた。 

そして、痛すぎて何も食べれないダイエット+家族からの同情というもくろみもどうやら失敗しそうだ。 帰り道に普通にお腹がすいたからご飯を食べてきた。 

うーん…。 何もかもが予想以下。 


とりあえず、めでたい!


それにしても! それにしても!

親知らずがないってファンタスティック。 このアゴに生じる素敵なVoid.

そう、この空間の広がり。 清々しさ。 自由だ。 今私の口内空間は久々の自由を手に入れた。 愛しの広場。 クールな禅寺。 潤わしの庭園。 ワンダフル。 ジャストワンダフル。 親知らずを抜く事でこんなに自由な気持ちになれるとは思わなかった。 勇気って出してみるものだわね。

2007-12-26

面白いもの

現代美術は面白いと思う。 面白さの深度が他と違う。 ふっとその面白さを噛み締めた瞬間が今日あった。

そうするとものすごく悔しくなる。 そして焦る。 現代美術関係の仕事で生きていこうと決心しなかった事を後悔する。 

でも、それが原動力になる。 現代美術から与えてもらった勇気を私なりの形にしていきたいと単純に思える。 答えたい、応えたいと思わせてくれた事柄はほとんど全部いつでも美術関連からだった。 そしてその応え方を探しているうちに今日が来ている。 明日も私なりの方法で答えるだろう。 

たまたまその気持ちがピークに達した時、この面白さを違うフィールドでやってみようと思えた。 私が意識的な選択らしい選択を、挑戦らしい挑戦をする事ができるようになったのは、変な話しだけど出会えてきた数々の芸術のお陰なのだ。 それを忘れちゃいかんと思った。 「こたえたい!」と思える事柄に短期間に現代美術やらを通じて出会いまくれた幸運を忘れちゃいけない。

本当に面白いと思っている。 現代美術は、本当に面白い。

そして現代美術が面白いと言う事は、勿論、世の中が面白いという事でもあるのだ。 芸術は理想やら幻想であると同時に、非常にアクチュアルなものでもあると思う。 それが何よりも鑑賞者側に勇気を与える。 
美術を面白いと思えているうちは大丈夫。 少なくとも、私はそう思う。

2007-12-25

Merry Christmas!

 久しぶりにクリスマスを実家で過ごしました。 友人を招待して、家で父の焼いたターキーを食べて、子供の時のクリスマスと同じプロセスをやった。 凄く凄く良かった。 

私の家はあまり団らんをしないし、結束も弱く、電車の中吊りで様々な雑誌が広告している「家族の力が子供の能力を伸ばす」系の真逆を突き進んでいる。 誰も誰とも気が合わないって言う意味で気が合っている家族だ。 

でもクリスマスは特別。 クリスチャンでも何でもないんだけど、the 家族のイベントとして長らく重要視されている。 そして父の焼くターキーが絶対に世界で一番美味しい。 いろんな人の家でターキーを食べたし、ここ五年間ぐらいは一晩に三件ぐらいパーティーをはしごしたりして遊んでいたけど、落ち着く先はこれなのねと思う。 

家族の味ってのは年々変化していくものだけど、ターキーはシンプル故にいつも同じような味になる。 付け合わせもソースもいつも同じ。 だから最高に良い。 一年に一度こうして最高のごちそうを家族で食べるのって幸せだ。 こんなにゴージャスは食事は一年に一回で良いな。 それ以外は粗食で過ごそう。 だって一番美味しい食事はもう私は知っているんだもの。 

そして年がら年中遊んでいる友人たちと、クリスマスまで一緒にいる必要は無いなとも思った。 もっとこんな日ぐらいは我侭に、親しい人を家に呼び、実家のメンバーと共に飯を食べさせるぐらいの感じが良いのだ。 勇気がいるけど、やってみると清々しい。 そして愛おしい。 

2007-12-23

グレート ギャッツビー

 期待もなく読んでみたら、澄み切った文体と、響き合っている物語性にガッツリやられて、今まで読んだどんな本とも違う、凄い読書体験になった。 優れた作品の持ち合わせている深い静寂を感じた。 こういうのは好きとか嫌いとかを超えて、まるで始めから人生の一部であったかのような存在感で、しっくりと心に住み着くね。 不思議な体験だ。


 夜、NHKのドキュメンタリーを何気なく見たら涙が止まらなくなった。 にっぽん 家族の肖像っていう番組の第一章の再放送だったんだけど、自分でも泣きながらどうして自分が泣いているんだろうって驚くんだ。 悲劇に対して泣いているのか、同情から泣いているのか、それとも一貫して描かれている「それでも、それでも人間は愛を持って生きているのだ」という姿勢に共感してなのか。 ああ、ただ絶対にこの番組に出てきていた人達に幸せな、幸せな、幸せな余生を送ってもらいたいと思うよ。 本当に。 悲しい、ひどいと思うと同時に人間に対する尊敬を持つ。 ギャッツビーの最後の文章が、アンビリーバブルに素晴らしかったんだけど、ドキュメンタリーを見ながら頭の中でずっと最後のフレーズを噛み締めていた。


 うわーん、なんか胸がいっぱいで眠れないよ。

2007-12-14

兄弟愛

最近しみじみと私は兄が好きなんだなあと思う。

これは結構な発見。

私と兄の関係は弱くあまり結びつきもなく、一緒に遊んだ事もあまりなく、一年に二回ぐらいしか話さない。お兄ちゃんの話しは滅多にしないし、私に兄弟がいる事すら知らない人も沢山い る。 私から兄の話しを聞いた事がある人はその私の淡々とした感じから「関係、薄いんだね」と言う。 その通り。 

だけど、どうも私は兄が大好きだぞ。 


お兄ちゃんがいるってことが、人生で最大のプレゼントだと思えてくる。 これを通じて親に感謝する心が湧く。 お兄ちゃんバンザイ!
最近しみじみと私は兄が好きなんだなあと思う。

これは結構な発見。

私と兄の関係は弱くあまり結びつきもなく、一緒に遊んだ事もあまりなく、一年に二回ぐらいしか話さない。お兄ちゃんの話しは滅多にしないし、私に兄弟がいる事すら知らない人も沢山い る。 私から兄の話しを聞いた事がある人はその私の淡々とした感じから「関係、薄いんだね」と言う。 その通り。 だけど、どうも私は兄が大好きだぞ。 

周りの人達が兄弟を愛おしそうに話す所とか、どうもかけがえの無い誰のも

2007-12-13

太陽


 ソフーロフの太陽を見た。

 私にとってソクーロフの映画がとても大切で、観賞後には色々な意味で求めている制作への道を示される気分にさせられる。 彼の作品を見ると熱い思いがみなぎる。 

 映画のおもしろさを教えてくれた映画監督が、私の母国語で、祖国に取っての強烈なタブーを映画化してくれるってのは、なんとも凄いことだ。 大興奮。 私、ラッキー!

 それにしても素晴らしい映画だった。 歴史的な事や、政治的な面は私は知識が無いので、評価の下しようが無いし、私はこれを歴史映画としては見ない、ってか見れない。 ただ、扱いにくいトピックを、これまでに取り扱われなかったような視点で挑戦するという事の素晴らしさを教えてもらったさ。 とても大切な事だ。 


そしてそれを含めて、
カメラがある、
監督がいる、
役者が演技をする、
音がなる、
映像となる、
時間が流れる…、
そういう一連のプロセス、
"映画"とよばれるものとして、ただ素晴らしいと思う。

何も「絵画の平面性」を主張するかのごとく「映画の映画たる質」を重視している訳じゃない。
大前提としての質をクリアして、なおかつ新しい物が表現されている映画を見てみたいと思う。
要するに、私は多くの人がそうなようにただいい映画が見たいのだ。 
そしてそれは私の場合ソクーロフの映画なのね。

映画には役者が収まるべき場所があると思う。
音楽が流れるべき瞬間がある。
シーンが変わるべき位置が画面上の構図に訪れる、
そういう基本的で当たり前の作法をここまで尊重して、
丁寧に適切に作られている映画はない。 
そしてそのように作られている映画の鑑賞から得る体験は、
いつでも私の想像の幅を超えて、想像力の切実な美しさを教えてくれるのだ。

イベントをただ見せる映画がある。
そういう映画においては、Aというハプニングと次のハプニングBの間に流れる時間がただのまつなぎであったりする。 でも実際の時間はそんな風には流れないし、それが時間の残酷さとリアリティーだと思う。 
いかに楽しい時間が流れていて、月日が矢のように過ぎようとも、私たちは一瞬一種の連続を通過しているのだ。 

彼の映画を見ていると、全ての時間が平等の緊張感で構築されている事が分かる。 
「見せ場」だけを力んで取っている映画じゃない。 全ての瞬間に同じ濃度がある。 
そんな、公平な作品を作る為にはとんでもない体力がいるだと思う。 


すごいなと思う文章にも通じるんだけど、そういう淡々とした冷静なコントロールが、本当のクライマックスを作る。 あくまでもこれは表現であると思える事が素晴らしい。 それって、とっても大切な事だともう。 

ああ、愛すべきじゃないか。 



それにしても昭和天皇役のイッセー尾形すごい。 
日本にこんなにすごい役者がいたのかと驚いた。 
トニー滝谷でも、その力量に驚いたけど、素晴らしい表現者がいる事の喜びを彼を見ていると思うよ。

そして素材としてこれ以上に有意義に彼女は使われないんだろうなと思わさせてくれる、
ズバリな数分感を作り上げた桃井かおりの配置もすごい。

ソクーロフと同じレベルの物が作れたらと思わず願ってしまう。




昨日はウェリントンから友達が来たのであった。
夢の中の人に会うような気分だ。 

一緒にいる時は振る舞いがウェリントンにいる時の私の振る舞いに少しなる。 
東京を背景にして自分の振る舞いがちょっと変わると、「こんな自分もそういえばいるんだよな」と新鮮な気分になる。 反省もする。 別にこれで良いんじゃないかと思う面もある。

ふとした時に自分がとる動作やリアクションが「気弱な人」な時があり、自分がウェリントンにいる時に日本にいる時とは全然違うんだなと驚く。 また友達と話す内容が「気が強い人」な発言だったりもして、それにも驚く。 面白いね。 友達には日本に来てもらって本当に良かった。

彼と別れた後に日本の大学の時の相棒に会う。
「コーヒーをのもう」と言って彼女に会う。

私は相棒とルーティーンで会う。 好きだから、楽しいから、会えると嬉しいから、一緒にいたいから、ルーティーンとして会う。 会って、彼女の存在を確認したい。 

すっごい大切な人。 ウェリントンでも大切な事は沢山あるし、大切な人達がいる分、新宿のわけのわからんカフェで会う友達への愛情も深まる。 

二人でソクーロフ賛辞をして、いっぱい面白い話しをして、聞くだけでも気恥ずかしいような「良い芸術とは?」なんて話して、やっと落ち着いた。 そして、とても元気になっていた。


神経過敏になったり、シュウカツをしたり、将来を考えたり、過去を思ったり、東京を歩いていたり、ウェリントンに属する人と山手線に乗っていたり、昔からの友達と一緒に過ごす今日を喜んだり、来年を思って戦々恐々としたり、全ては漠然としている、 でも時間は過ぎていく。 こういう感じを、こういう混乱している時に徹底的に感じる、時間の無常な力強さをソクーロフは映画に出来るんだよなあと感動する。 とても神聖な事だと思う。

2007-12-06

小さなエコ

世帯数は少ない方が良いだろう。 消費電力とか少なくなるし。 お互いに会いに行く為のトランスポートを使わないですむし、冷蔵庫一個ですむし。 なおかつ他の人達も集ってきて、一つの部屋で夕ご飯とかを食べるから暖房もガンガンにいれないし。

ってことで、私は気に入っている恋人同士には「なんで一緒に住まないの?」と一応聞いてみる。 

「二人で住んだ方が楽しいんじゃないの? 私も一気に君たちに会えるし。 さあ、今から不動産屋に行け。」とせっつく。 彼らは私が壮大な、一人アンナ議定書に乗っ取った行動を取っているとはこれっぽっちも考えていまい。 恋に落ちている奴らの想像力なんてお互いにぐらいにしか働かないもんさ。 あっはっは。 

親友があまりにも彼氏さんにめろめろっぽかったから、私なら一緒に住みたいだろうなと推理して、「早く一緒に住みなよ」と彼氏さんの前で言ってみた。 そうしたらそうなるらしい。 イヤッホーイ! 

 私、地球環境にも親友にもある種の貢献をした気がする。

だから広い家を借りて、ちゃんとお客さん用のお布団を用意して、私の為の漫画とか楽しい物とか置いておいて、二人で私をちやほやとしてくれればいいのさ。 ワクワク。

ちょっとキュン





本屋で広告批評の表紙をみて、ちょっとキュン。 可愛い表紙だ。


いつもこんな感じならいいのにね。

片付ける女

最近、片付けてばっかりだ。 結局、一年の内の一ヶ月分以上は引っ越しと片付けに時間を費やしていると思う。 なんて非効率的な日々!



写真を整理していたら、最後ら辺のスタジオの写真が出てきた。 なんてこった! なれって怖いから、この時は別にそこまで汚いと思っていなかった。 「それどころじゃない」ってなっていたし。 一応、これは二日間ぐらいかけて片付けはじめていた状況での写真。 方向性は見えてきたと思った時にとったやつです。 本当はもっとすごかった。 全てを運び出すのは苦痛でした。















シャンプーとタイヤとガスマスクが何故だか一気に置いてあったりするんだもの。 私のカテゴライズの仕方って一体何なの?



 



あと無くしたと思っていた服が数着出てきた。 やったね!







結局五日間ぐらいかかってこの状態になった。 頑張った! 


クラスメイトと「来年は、もっと考えてスタジオで作業しよう」と約束をした。 そう、実は私は全然悪い方じゃなくて、すごい人は本当にもっとすごかった。 あの人達って結局終わったのかなあ…。



今実家の私の部屋も片付け進行中。 せめて年末までに。 頑張ります。

2007-12-04

難しい女

 難しい女のことを考えいていたらメールがきた。 なんていう偶然。
彼女のメールはいつでもポエティックで、こっちはさっぱり理解できない。
ただ、話している時のトーンは私がポエティックすぎて、相手からするとさっぱりなんだそうだ。

とりあえずメールボックスを開けた時に彼女から連絡が入っていて嬉しかった。 
日本に来る、らしい。 

こういうときに布団にもぐって、「お願い! 私からは大人の態度がとれないから、あなたからアクションを! 何も無かったみたいに私に接して! 私に関するぎこちなさを一切私に訊ねないで!」と祈ってしまう人間は何も私だけじゃあるまい。 

そしてそういう人を見て、大人の態度をとるどころか、「なんでお前はそうなんだ」と追っかけてくるやつがいる。 それが彼女。 そうなったら私は走って逃げる。 


ううう、二人とも不器用なのね。


ここは私が母国にいるという地の利を生かし、大人な屈託の無い、拗ねていない態度を取る、しかないのかもしれない。 


 まあ、どちらにしろ楽しみだ!

 強烈なシフトがおこらなくてはいけない。 

2007-12-03

難しい

 「あの人は難しすぎる」とか「私は相手にとってきっと難しすぎる」と思ってしまう人っている。

「この女はどうしてこうも難しいんだ!」と思っていた友達がいる。 でも想うと、涙が出そうになって、「あたしが難しかったのかもしれない」と思えてきたりする。 彼女のやりたいようにやらせりゃよかったのかもしれない。

 でももう連絡の取り方が分からない。 メールを書いたら、喜ぶだろう。 電話をしたら、何かが変わるかもしれない。 

 ただ、もう一回二人でやった地獄巡りみたいな、「欲しいところにどうやって行ったらいいのか分からないの!」っていう状況になるのだけは嫌だと思うから足踏みしてしまう。 


 MTVのヨーロッパミュージックアワードを見ていたら、ポップスなんて絶対に聞かない彼女が「こいつは天才だ!」と太鼓判を押して、ヘビーローテーションでかけまくっていた、MikaがGrace Kellyのパフォーマンスをしていた。 私は彼女がアソシエイトする全てが嫌だったので、聞かず嫌いを決め込んでいたんだけど、確かにすごかった。 かなり魅力的。 ある展覧会で彼女の出身地であるアイスランドに関係する作品を見たばっかだったってのもあって、頭の中で妙にはっきりとした輪郭を持った「私たちの関係性とそこにひそむ悲劇と、愛情」みたいなのが出来上がって、胸が締め付けられた。 私が悪かったのか?

 でも、本当に彼女が何が欲しいのか分からなかった。 あいつは謎だ。 


 そんな不思議な気持ちを大量に思い出させてくれる、こんなビデオを興味がある方は見てみて下さい。 ちなみに体や服装、口とか、アゴとかが、私がクレイジーになっていた人(要するに、今年の私はいつも絶えず誰に対してクレージーになっていたんだよな)とそっくりで、なんかそんな意味でも今年っぽい。 なんかすっげー、今年っぽい。 今年ってこんな感じだったなあ。


かっこいいじゃん

 最近のテーマは「かっこいいじゃん!」なアンナです。

「おお! かっこいいじゃん!」って一日に百回ぐらい言っているかもしれない。 日々、脳が単純になっていく。 かっこよければいいじゃん。

 友達と五反田からバスに乗って六本木に行ったんだけど、それが良かった。 もう夕暮れで街の景色が空の明かりから建物から漏れる明かりを中心とした物にシフトする瞬間の東京は、最高に美しい。 バスから見える道の明かりや、空の色彩が変わって行く様子はファンタスティックだった。

 日本の夜の色彩は濃い。 本当に濃い。 黒の美しさでこの国に勝つ地域なんて滅多に無いだろう。 東京の夕暮れから夜にかけての変化を見るだけで、ここにいて良かったと思える。

 こういう情緒が色々な物を支えていると思うんだよねと友達に言うと、友達もにやにやする。

 で、それを一番上手に上品に表現しているのって意外と、降谷健志だと思わない?と言ったら友達が過剰反応をした。 やっぱりな、こいつもそう思っていたか! とりあえず二人で彼がどれだけ正当な評価をうけていないかと話した。 「歌詞がすごい!」「リズムもいい」「色調がすごい」とバスの中でずっと言いあう。 Ivoryとか、よく思いついたよ。

 もっと好きな物の話しができちゃうんじゃないかと、「あの号のIDEAは良かったよね」とか、「あのビデオは?」とか言いあってみる。 意外と趣味が被る。 何よりも、特定の時期の「流行通信」は神がかっていたという所でお互いに握手。 はっはっは。 そして彼は李禹煥をふかーく尊敬しているという面でお揃いなのだ。 乾杯! そんな彼は私にユリイカのジョジョ特集をお土産にくれた。 

 電車も好きだけど、バスも好きだ。 ごしょごしょと小さな声で話さなければいけない感じも、細い路地とかを見る事ができるのも、地理に詳しくなって行く感じも、全部楽しい。 これからは東京都内はバスで移動してみようと思う。

 

+81

+81が好きだ。 かっこいい。

バックナンバーが欲しくて友人と六本木のツタヤに行った。

「むちゃくちゃいい感じじゃない? ただかっこいいとか、ただスタイルが良い物って滅多に無いじゃん!」と友人に言ったら、「あんた、硬質な物が好きよね」と返された。 そうかも。 私が誉めるものはそういうのが多いかもしれない。 ああ、まあなんか答えになってないけど、意見で返された、そんな会話だった。

とりあえず好きになれるものなんて少ないこのご時世、「ただすっげーかっこいい」って物はそれだけでアプリシエイトするべきだと思うね。

2007-12-01

伊東豊雄さんの授業

 多摩美で伊東豊雄さんの授業を受けてきた。 

胸がいっぱいになる授業だった。 生彩で溢れていた。
勇気が出た。 

帰り道の電車の中で、思わずちょっと涙が出た。 


がんばろー!

because I can

 四日間ぐらい部屋に籠って作業をしていた。 大昔に手伝った展覧会とかのTシャツに、タイパンツ、勿論スッピンで、風呂も入らなかった。 正直、それどころじゃなかった。 

 終わった事を喜び、一応服を買おうと街に出た。 髪をセットするのも化粧をするのもめんどくさく、帽子を目深に被り、とりあえずグラジなんだという主張をしようと、真っ赤なヴェルヴェットのジャケットに薄汚いズボンを履き、向かった先はユニクロ。

 なんか全てがめんどくさかった。 クリスチャン・ボルタンスキーの物悲しい本を読みながら行ったよ。

 女物を見るのもめんどくさいと、男物の一番安いセーターを試着した時に「あたしこんなんじゃいかん!」とやっと意識が戻り、一応女物を見る。 で、セーターを買う。 黒いタートルネック。 めんどくさい時は黒いタートルネック。 これはuniversal law.

 名前と被っている帽子が一緒だという事で、友人の永遠の女性であるらしいアンナ・カリーナの話しをよくされる。 「あんなに可愛い服装の女の子はいないよ! 本当に可愛いんだよ」と映画まで見せつけられた事を思い出し、一応ちょっとオーバーサイズを買う。 せめてもの理性。 そして友人への貢献。

 ちょっと回復してきたぞと、もっと服を見る。 

 友達はみんな良い人達だから「可愛い服装をしているね」とかって言ってくれるけど、家族はひどいから「もっと日本に適している服装をしてくれ」と言ってくる。 母は銭までくれた。 でもわかんねーよ、どんな格好したら良いのか。 しかし、この日本滞在期間中の冬服を買わない事には、私にはふざけたTシャツと汚いズボンぐらいしか持っていない。 母に泣かれる。

 服を見ながら段々落ち込んでくる。 何も欲しい物が無い。 着たい物が無い。 お洒落って、怖い。 例えば何か用事がある時、「誰々とどこどこで食事をする」とか「大学のプレゼンで着よう!」とかあればそれはそれは楽しいし、女の子同士で遊びに行く前に準備をしている時とか最高に楽しい。 

 でもなんか今はそんな気分もない訳だ。 めんどくさいし、物欲も湧かないし、思わず、クリスチャン・ボルタンスキー。 こんなんじゃいかんと、なんだかゴージャスなジャン・ヌーヴェルの本も読む。 盛り上がりそうで盛り上がらない。 

 で、服なんて気にするから人生がめんどくさくなるんだと、はっと気がついた。 これはクラスの愛すべき男の子たちの理論を使うしか無いのだとひらめく。 

 「ねーねー、どうしていつも同じTシャツなの? ジーンズ二本しか持ってないの?」と言う度に、because I canと返してくる彼らと同じように生きようと決める。 そう、私はに出来るのだ。 出来るのだ! 何を着ても問題は無いのだ。 何を着なくても問題はないのだ。 Because I can! なんて心強い開き直り。

 そして、先生達。 昔は学生だった彼らもよく見ていると同じ服を永遠と着ている。 ただ、素材感が良くて、Tシャツでもちゃんとアイロンをかける。 そして体を鍛える。 それが一番手っ取り早いんだ。 私のいつも一緒にいた先生は黒いスキニー二本と、Tシャツを片手で数えるぐらいと、同じ色のジャケット三つ(モコモコ、ヴェルヴェット、コーデュロイを気温によって着分けていた)と靴を二足しか持っていないけど、人生楽しそうだった。 そして私はそのミニマルさが分かりやすくて好きだった。

 とりあえず、黒いスキニーを一本と長袖のTシャツ二枚を買う。 これで十分だ。 これと冷凍庫の中にヴォッカのボトルが二本いつも入っていたら私はそれで良しとする。 

 きちんと面倒を見て、清潔に着れば問題無し! 私は質素に生きるぞと、一人で満足。 

 なんだか今、本当にこんなんで良いのかって気分にもなってきたけど、何を持っているか忘れてしまうぐらいに物を持って暮すよりも、ちょこっとの物を持ち、空間に余裕があり身軽な方が今は良い、はず。 

とりあえずこんな感じ。

because I can

 四日間ぐらい部屋に籠って作業をしていた。 大昔に手伝った展覧会とかのTシャツに、タイパンツ、勿論スッピンで、風呂も入らなかった。 正直、それどころじゃなかった。 

 終わった事を喜び、一応服を買おうと街に出た。 髪をセットするのも化粧をするのもめんどくさく、帽子を目深に被り、とりあえずグラジなんだという主張をしようと、真っ赤なヴェルヴェットのジャケットに薄汚いズボンを履き、向かった先はユニクロ。

 なんか全てがめんどくさかった。 クリスチャン・ボルタンスキーの物悲しい本を読みながら行ったよ。

 女物を見るのもめんどくさいと、男物の一番安いセーターを試着した時に「あたしこんなんじゃいかん!」とやっと意識が戻り、一応女物を見る。 で、セーターを買う。 黒いタートルネック。 めんどくさい時は黒いタートルネック。 これはuniversal law.

 名前と被っている帽子が一緒だという事で、友人の永遠の女性であるらしいアンナ・カリーナの話しをよくされる。 「あんなに可愛い服装の女の子はいないよ! 本当に可愛いんだよ」と映画まで見せつけられた事を思い出し、一応ちょっとオーバーサイズを買う。 せめてもの理性。 そして友人への貢献。

 ちょっと回復してきたぞと、もっと服を見る。 

 友達はみんな良い人達だから「可愛い服装をしているね」とかって言ってくれるけど、家族はひどいから「もっと日本に適している服装をしてくれ」と言ってくる。 母は銭までくれた。 でもわかんねーよ、どんな格好したら良いのか。 しかし、この日本滞在期間中の冬服を買わない事には、私にはふざけたTシャツと汚いズボンぐらいしか持っていない。 母に泣かれる。

 服を見ながら段々落ち込んでくる。 何も欲しい物が無い。 着たい物が無い。 お洒落って、怖い。 例えば何か用事がある時、「誰々とどこどこで食事をする」とか「大学のプレゼンで着よう!」とかあればそれはそれは楽しいし、女の子同士で遊びに行く前に準備をしている時とか最高に楽しい。 

 でもなんか今はそんな気分もない訳だ。 めんどくさいし、物欲も湧かないし、思わず、クリスチャン・ボルタンスキー。 

 で、服なんて気にするから人生がめんどくさくなるんだと、はっと気がついた。 これはクラスの愛すべき男の子たちの理論を使うしか無いのだとひらめく。 

 「ねーねー、どうしていつも同じTシャツなの? ジーンズ二本しか持ってないの?」と言う度に、because I canと返してくる彼らと同じように生きようと決める。 そう、私はに出来るのだ。 出来るのだ! 何を着ても問題は無いのだ。 何を着なくても問題はないのだ。 Because I can! なんて心強い開き直り。

 そして、先生達。 昔は学生だった彼らもよく見ていると同じ服を永遠と着ている。 ただ、素材感が良くて、Tシャツでもちゃんとアイロンをかける。 そして体を鍛える。 それが一番手っ取り早いんだ。 私のいつも一緒にいた先生は黒いスキニー二本と、Tシャツを片手で数えるぐらいと、同じ色のジャケット三つ(モコモコ、ヴェルヴェット、コーデュロイを気温によって着分けていた)と靴を二足しか持っていないけど、人生楽しそうだった。 そして私はそのミニマルさが分かりやすくて好きだった。

 とりあえず、黒いスキニーを一本と長袖のTシャツ二枚を買う。 これで十分だ。 これと冷凍庫の中にヴォッカのボトルが二本いつも入っていたら私はそれで良しとする。 

 きちんと面倒を見て、清潔に着れば問題無し! 私は質素に生きるぞと、一人で満足。