誰でもそうだと思うけど、小さいときってのは夢がいっぱいあって、ロマンチックな事を沢山考える。
例えば、私は照れずに私に、日常的に様々な事を表現してくれる友人が欲しかった。 どのような表現を想像していたかというと、手の込んだ手紙であったり、写真であったり、言葉であったり、音楽であったりした。
別に私だけにして欲しいって訳ではないんだけど、私の存在をちょっとでも考慮した表現をしてもらいたかった。 コンシューマリズムとか、芸術とかそういうのと別に関係のない、個人間の表現が欲しかった。 日常の些細な、でも身の丈にあった表現そのものを交換する媒体になるような、そんな時間を過ごせる大人になりたかったとも言える。 そして今でも思っている。
なんで突然こんな事を言い始めたかというと、それにはっきりと数日前気がついたからだ。 友達が送ってくれた二枚の写真で、静かな爆発が自分の中に興り、なんてすっごい事を普通にしちゃっているのだ、自分たちは!!!!ってぶったまげた。
いつもぼんやりとほとんど全ての行動の裏側にある動機にはっと気がついたんだ。 どうやら私は個人が行う、些細な表現の発表と、イメージの交換を猛烈に大切な事だと思っているようだ。 こればっかりは、私は動機を今のところ追わないし、疑おうとも思わない。
人間としての大人になり方とか、beingとしての喜びとかを、現代社会に生きる為に大人になるっていうサバイバル的な意味での成長とパラレルで伸ばそうと思うのは、きっと私のネイチャーなんだ。 あきらめなれないぐらいに、小さいときに信じ込んでしまったんだ。
気づいてみると、比較が無いから長けているのかそれとも、全然駄目なのかすら分からないけど、それでもある程度の理想の範疇内に今がある気がする。
アレックスはいつも作った物を送ってくれる。 淑という素晴らしい画家の友達もいる。 遠くから景色の写真を送ってきてくれる友人もいる。 思っている事を伝えてくれる、話しかけてくれる人は少なからず、私の周りにいる。 何が素晴らしいって、これが何かの為にあるのではなくて、ただ単に自己主張とか、シェアリングの範疇内だって事だ。 芸術の為でもなければ、売る為でもなくて、当たり前の次元として伝えたいと思ったことがある事を伝えてくれる友人にこの年になって結構囲まれるようになった。 一種の生命力として、ナイーブに周りの人間との表現をアプリシエイトしたい。
夢が叶った!
もっと欲しいと思うけど、それは私の表現力と関係するんじゃないかと思う。 私ができる表現力以上の表現をもし私が受け取れたらそれはものすごく幸運な事で、でもそれは多分滅多に無いことだろうと思うので、もっと表現力が欲しいよ。 だって、もっと伝えてもらいたいもの。
友達が意識と経験の話しをしていて、経験は、言葉とは関係なく実感として感じられる事なのだ的な事を言っていた。 赤を見た時に、僕たちが見ている質を経験と言うんだよみいたいな事を言っていて、私は小難しい話しが苦手なので、ぼんやりとしか理解できなかったんだけど、とても面白いと思ったんだ。 容器とその中の水の話しみたいな感じでさ。 容器が言葉ならば、経験は水だ。 多分、そういう話しじゃなくてもっと高次元の何かを言っていたんだと思うんだけど、私は、"赤"っていう言葉と"質としての赤"っていう経験の差を明確に人に言われたってだけで小躍りがしたくなっちゃったんだよね。 (ちょっと話しがクオリア臭くなってきて、そんなたぐいの話しは2003年ぐらいからずっと日本でブームだったよと、大学一年生の時にデザイナーがみんな言っていたよと冷ややかに思ったりもするんだけど、でも話しがずれるからやめる)
子供の頃に想像していた事には質がないから、体験して初めて経験になる。 見てみたいと思っていた世界の中に今、かろうじて自分がいるっていうのが、その「実」の感じを凄く不思議に思うよ。 想像ってのはしてみるもんだ。 うん、それだけ。
私に写真とか、面白い話しとかを、伝えようと思って伝えると、とっても喜ぶから一回やってみて下さい。 小躍りするから。
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