2007-06-24

ごもっとも、ささけんさん!



  この本は身近に持っておくに限ると直感的に思い、日本からこちらに帰ってくる時に持ってきた唯一の昔の教科書が、佐々木健一の「美学辞典」です。 多摩美の周りの古本屋さんには必ず数冊売られているというある種の悲しみをおびた一冊であり、実際の所私自身、教科 書として使っていた当時は、知りたい所だけを適当に読んだだけで、売らなかったのが奇跡という感じがあります。 

でも今回はじっくりと始めっから全チャプターを読んでいます。 必死だからね★


 そして、やっと価値が分かったんだけど、この本は素晴らしい! 本当に、なんて為になる本なのだと、読みながら感心し切ってしまったよ。 この本をまだ持っている人は、悪い事は言わないから、たった今からさっさと読み返せ。 端的に言って人類の歴史には恐れ入った。 考え込んだ美学者たちも、彼らのセオリーをまとめあげたササケンも、みんなすっげーがんばった。 役に立つってこういう事かいと思ったさ。


 今回この本を読んで、産まれて初めて世の中の人が言っている事を身をもって体験したと思いました。 「あたし、ごもっともじゃん」初体験をしました。 ぴったりだと思う事って今まで何に対してもなかったんだけど、ありましたよ。 ありました。 全世界に対して「ごもっともーーーー!」って大声で叫びたい衝動にかられました。 


 デザインとも美術とも直接は関係ないんだけど、素朴にして、理解しがたかった疑問が、背骨を得た感じです。 

それは何かと言うと、「好意」に対してです。 具体的に言うと、違う方向に話しがそれるから、さらっといきますね。 

人を好きだっていう状態ってなんて不思議なんだと最近ずっと思っていました。 人を好きになると、シンプルすぎて驚くぐらいの深層の快があるでしょ、想像とかとは結構違う、単純明快の極みのような喜びが。 私はその喜びと快と、単純明快性のダイナミズムさ故に、「もしこれを恋と言うならば、恋って言葉の包括する領域は広すぎるし、なんだか違う気がする。 恋っていう言葉が表しているのは、この生の喜びの1%にも満たなくて、多分本当にこれは複雑な何かだ。 とりあえず私が不思議がっているのは多分、恋じゃない。」とずっとダウティングしていた。 

私が驚いて、これって凄いと思っていたのは、誰かに好意を持つ事で引き起こされる圧倒的な、私の見ている世界に沸き起こる変化の内容についてだったんだ。 

元々悲観的な考え方が強い私が、「これは期待と希望しかない」と状態を体験し、本当に不思議でならなかった! 期待と希望の質感が、自分の生命と共にあるこの不思議。

で、今回美学辞典を読んでいて、私が不思議がっていた事が「美」なのだと気がついた。 そう、うっすらと気がついてはいたんだよね。 どうも、ある種の芸術はこの作用を使っているぞとか、この好意と素晴らしい芸術を好む気持ちは違うのかとか、「素晴らしいから好き」なのかとかとは考えていたんだけど、「美」ではリンクしなかった。(これだから、私は。 いつもめんどくさがって、基本を抜かすから、遠回りする。 この場合はさっさと教科書を読んでおけって話しだ。) 

美とは”「端的な完全性」すなわち、「そのものの概念」に限定されない完全性である。 その価値を直感的に知覚するとき、われわれはそこに美を認めるのである。 また、美における言語や概念は、遥かに積極的な役割を担っている。 美の与える快は精神を活性化する。 その状態においては、概念的な思惟がむしろ積極的に展開される。 例えば、絵画にかかれた或る対象が何であるか分からないときには、むしろそれを解明しようとする。 美は言語的な挑発である。 ” そして、"我々は、言葉によって美に挑もうとする。 すなわち、美は、われわれがそれを言葉によって捉えようと試みたくなるような魅力であり、かつ、どのような言葉もそれを捉えることができないが故に美なのである"と、ササケンは様々な例を出し、まとめあげた。 ただただ、感嘆。

"積極性"を、期待と希望に、「好きだから好きってのはおかしい」っていつも人に反抗していた部分は、"言語的な挑発"に、ぴったりと当てはまる。 多分、私は言葉を使い間違って、「好き」とか「好意」って表現していたんだけど、私はもっと適切な言葉で言うと、"美的体験"を不思議がっていたのですね。 それだったら、そうだよ。 「これって芸術の効果と似すぎてない? 私、頭大丈夫?」とかって思っていたけど、似てるも何も一緒だ。 で、"美的体験"のチャプターを読んでいた時にも、"感覚的で技術的、かつ知的な多層的理解の、力動的なプロセス"、"美的体験は発見的である"とか"美的体験は出会いであり、「開いた体験」という性格を持つ"などなど、そうそうそうそう、そうなんだよって事の連発でありました。 

今まで「好きだから好きで良いじゃん、ごちゃごちゃ考えている方がおかしいよ、何を不思議がっているの?」と私に言ってきた友人たち全員に謝りたいです。 「君の方がおかしいよ。 どうしてこれを語らずにいられない? 不思議がらずにいられない?」と言い続けて、ごめん。 私は多分、違う話しをしていた。 で、私が不思議がっていた内容を分かって。 私が言いたかった事は、こういう事なの。 人を好きになる時に経験する、そこはかとない質感が不思議で不思議で仕方がなかったんです。 多分、私は「なんて美しいんだ。」って言いたかったんだけど、その人個人が美しいとか、そういう事が言いたかったんじゃなくて、”「そのものの概念」に限定されない完全性”についての話しだったからストレートに言えなかったんです。 だって、美って言うと、なんか「外見が適切に出来ている」とか「道徳的に正しい」とかそういう方向だったり、「いやー、人を好きになるってのは青春で美しいっすね」とか質感じゃなくて状況に対する形容詞みたいになっちゃうと思っていたんだもの。 

そして何よりも、「彼って美しい」って言うのとか、「この美しさってのは、こうじゃなくて、ああじゃなくて、もっとうにゃうにゃで〜〜」ってやったら、言われた方が困るでしょ?! 


でもやっぱりそうなんだよ。 人を好きになっている時、関係ないようでいて、実は相手の中に美を見ているんですよ。 それがどれだけ相手にも自分にも似合わない概念でも!  


 何か急に実践的に役に立つ方法論とかでは全くないだろうから、知ったから何だって話しだとは思うんだけど、私は本当に感心しました。 この発見すらもが美的体験。 多層的理解。


いやはや、今日は本当に感心した。 そして私が経験した事が結構に一般的であるという、どんぴしゃりな感じに安心した。 久しぶりにぐっすり眠れそうです。


おやすみなさい。

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