2011-08-10

ミューズリー

2週間に一回ぐらい朝食用のミューズリーを作る。

作り方はすごく簡単。 オーブン用のバットに燕麦とちょっとのマーガリン、沢山の蜂蜜を入れて混ぜる。 これが基本の部分ね。 それに、好きなドライフルーツとかナッツを好みで入れる。 


こんな感じ。 今回はレーズン、アプリコット、クランベリーとピーナッツを入れた。 本当はアーモンドが良かったんだけど、前回作ったときに全部使っちゃったの忘れてて家になかったから、急遽ピーナッツに変更。


それで190度のオーブンで20分ぐらいベイクすると、すごく美味しいミューズリーになるよ! 作ってみるまで、こんなに簡単に作れるとは思ってなかったものの一つ。

そういえば昔はミューズリーって鳥のえさみたいで好きじゃなかった。 今は簡単に準備出来る朝食って事で重宝している。 働き始めたら、好みかどうかよりも楽かどうかを選ぶようになったよ。

あとね、こっちでだと燕麦がすごく安い。 勿論メーカーにもよるけど、だいたい1kgで200円ちょっと。 私が二週間に食べるミューズリーでは150gぐらいの燕麦を使うので、出来合いのミューズリーを買うより、かなりコストパフォーマンスが良い。 ドライフルーツも量り売りで買うと結構安いんだ。 そういう所も気に入っている。

もぐもぐー!

2011-08-07

食卓にはいつもレモン


食べ物や飲み物にレモンを絞るのが好き。
食卓にはいつもレモン。

"デザインの背後にはいつもほんの一瞬の沈黙が隠されている"

日常的に2006年に日本で見たソットサスの展覧会(エットレ ソットサス 定理に基づいたデザイン)の前文を思い出す。 

なぜシャンパンは紙コップに注がれないのか。殺すための剣はなぜ彫り物で飾り立てられていたのか。なぜバイクのデザインはいつも速さを連想させるメタファーを表現しているのか。なぜ娘達やご婦人は何かの祭壇のように、いつもテーブルや家具の中心線上に、花を生けた花瓶や彫像や親、子供の写真立てを飾りたがるのだろうか。教会の祭壇の中心線上に設けられる小さな壁龕のように。

デザインの背後にはいつもほんの一瞬の沈黙が隠されている。何かがやって来る、もしくは何かが起こる期待感。ひとつのデザイン、ひとつのプロジェクト(企て)がこの世にすえられた瞬間、それを手がけたものには責任が課せられる。バイソンを殺すために弓矢を使った者は、バイソンに許しを乞うことになるだろうし、敵を殺すために剣を使うことは、血が噴き散るということだろう。テーブルの上にスープの皿が添えられていたら、その皿を与えてもらえる幸せも感謝したくなるだろう。デザインという定理は実に晦渋なものである。

 本当にそうだね、ソットサスさん。 

デザインの背後に隠れている一瞬の沈黙は歴史の扉が開く時間でもあると思う。

私は引っ越しが多いので出来るだけ物を持たないようにしている。 だからあまり物にはこだわらないようにしている。 それでいつか家庭を持ったり定住した際には、きちんとした物がそろえたいなと希望に胸をワクワクさせている。 特に台所用品なんかはそう。

でもカットラリーは引っ越しのときにそんなに場所をとらないので、結構贅沢をしている。 他の部分でその夢がかなわない分、妙に気合いが入るのだ。 日常使いでは、ライヨール のカットラリーを使っている。 「君は実は包丁なんじゃないかい?」ってぐらいにナイスな切れ味で、でも細身できれいなところがとても気に入っている。 あと、全近代な仰々しいデコレーションも気に入っている。 それに比較的重いんだ。 私はよっぽど近代的でシャープでモダンな形のカットラリー以外は、軽いカットラリーがみみっちい気分になるからなんかいやだ。

ふしぎとこういう細かい事が日常の喜びにダイレクトに関係している。 例えば柳宗理のデザインしたカトラリーはとても買いやすい値段なのに、非常に美しい。 私はそういうのを見ると、結構真面目にデザインの力とか、物の背景に潜む形の歴史の積み重ねに感動してしまう。 生活の叡智と愛が詰まっているのだ。 私の小さな、でも積み重なってしっかりとしていく喜びに、良いデザインは直結している。


2011-08-06

フレンチトースト

週末は朝ご飯を一番がっつりと食べる。 なんでなんだろう、週末の朝ご飯って特別だよね。 友達とブランチをしに行く事も多いし、家で連れ合いや友達に何かを作ってもらう事も多い。 実家にいる時も父がかなりスペシャルな朝ご飯を作ってくれていた。 父はビル グレンジャーのファン ボーイなのでかなーり気合いの入った美しい朝食を作ってくれる。

今日の朝ご飯は連れ合いの作るフレンチトーストだった。 いつもブランチデートの相手が朝やる事があったのでドライブに連れて行ってくれなかったから。 




少しだけグリルされた桃が瑞々しくて、とても甘くて美味しかった! ソースに使った蜂蜜との相性もとても良かった。 桃と蜂蜜の関係って、すごく幸せだと思う。 美味しくて、美味しくて、最高の週末の始め方になった。

しかし小さなお皿に乗って出てきたぞ。 おいおい、お茶菓子かよ。 私は料理が小さなお皿に載っているのがあまり好きじゃない。 堂々としたたたずまいが好きなのだ。 文句を言ったら「じゃあ食うな」とおこられる。 うーん…、どうして通じないんだろうこの感じ。 食卓って小さな祭壇なのに。 「私は小さいお皿と、軽いカットラリーは、君の料理の価値を下げるといっているだけなの。 要するにね、お皿が大きい方が料理の価値がきちんと表現出来るのよ!!」と下手に出た説得を試してみた。

2011-08-05

 大昔の、日本の大学にいっていた頃のブログを読み返していたら、毎日のように淑慶の話しが出てくるのに笑えた。 10代から20代のはじめの時期を、画家の友達と、これでもかってぐらいにじっくり過ごせた事はすごい祝福だったなと思う。

どうもありがとう。 だんだんと当時の彼女の年齢に私も近づいていている。 かっこいい女性のロールモデルがいる事が嬉しい。

やはり私にとってのかっこいい女の代表は画家だ。 淑、毎日絵を描いてますか? ずっと画家でいてね。 朝目が覚めたときも、夜寝るときも、ずっとずっと。

2011-08-04

のらいぬの願望

のらいぬの連れ合いの妹はいつもうちで夕飯を食べる。 「いつもご飯を作ってもらって悪いから」と今日は彼女がご飯を作ってくれた。 家の食材を使うだけ使って。 のらいぬは思う。 こいつが大学院を卒業して仕事を見つけた暁には、一回こいつの冷蔵庫まるまる食べてやると。

のらいぬの昼飯

のらいぬは今週、食費を切り詰めるため、夕飯とお昼ご飯を別々に作る事にした。 いつもは夕飯の残りをお弁当にして持って行っていたけれども、今回はお昼のお弁当用に色々と安い食材を入手。 っが、結果的にかなりいつもよりお金がかかってしまった。 むむん…。

夕飯だけ作ると食材が使い切れないので、やけに高くかかるという事を学習。 それを使って昼ご飯を作るならまだしも、その上に昼用の食材を買ったのが敗因だった。

っち、いつもの作戦に来週から戻すぜ…。

2011-08-03

相棒と俺

「俺はのらいぬだぁ」なんて書いてみたから、友達に「あんた一人で生きてると思うなよ」と思われそうなので…、一応、そんなことないですと書いておきます。

嬉しい事に親友が沢山いる。 みんなそれぞれに大切。 友人に関してはとても恵まれているなと思います。 きれいごとでなく。

その中で、「おう!相棒!」って関係の友達がいる。 大学の同期の大磯の女だ。 遊ぶときは、鎌倉の海か、大磯の海か、間を取って江ノ島かな、そんな関係。 正月は一緒に鶴岡八幡宮に行って、箱根駅伝の応援に行く。 たまに都心で会うと、お互い脱湘南した服装をしているので、「あんた誰?」となる。 横浜越える際に、お互い服装が海仕様から陸仕様に切り替わる様子。

私と相棒は仲はいいけど、性格は結構違う。 

私は…、ある一面においては結構真面目だと思うけど、相棒は全方位に真面目だ。 初めて会ったとき、「この人、こんなに真面目で疲れないんだろうか」と思った。 つきあってみたら、実際よく疲れている。 あはは。 でもその真面目さとコツコツ蓄積型の彼女はやっぱりいろいろ達成している。 結果を出す女だ。 疲れても、損はそんなにしてないね。

彼女は「上から引っ張られてんの?」って感じにすくすくまっすぐと育っている。 物事に対する意見も素直だ。 私が単純ではあるけど、結構皮肉屋で、斜に構える気質があるのと良いコントラストになっている。

長い付き合いを通じてかなり多くの事を彼女から学んだし、彼女の人生を共有させてもらって、自分ではしない事を沢山追体験させてもらった。

いつも、どうもありがとうね。 これからも頑張ってね。 I love you.

のらいぬ狂想曲

日本の大学時代の友達に近況を伝えるようにとはじめたこのブログも気がつけば、6年目に入りました。 こっちの大学を出て、働き始めてから三年目。 日本の大学を辞めてから7年目。 日本の友達とは一緒にいた時間よりも、離れていた時間の方がとても長くなっちゃったね! 考えてみたら、ブログの初期に出てきていた友達で、日本に残っている子って結構少なくなっちゃったし、こっちの友達も今ほとんどNZにいない。 ばらばらになっていくものなのだなぁ。

日本の大学時代につけていたブログとか、このブログでも大学生の頃のを読むと、その元気さに我ながら驚きます。 私、元気な子だったのね…! ブログ読んでて気づいた。 書いている事の内容もほとんど忘れてたし、今は全くこんな考え方しないし、そもそもこんなに元気じゃないし。 「オーイエー!」とか書いてるもん。 むりむり、そんな言葉最近口にすら出せてない。 どんな身体感覚だったんだろう。 6年経てば人間結構別人だ!

このブログは「のばらいろのひび まさに夢のガリバー旅行記」と銘打って続けてきたんだけど、確かに以前は、毎日が「夢のガリバー旅行記」だった。 自分自身と世界との比が、小さくなったり大きくなったり、日々ぐにょんぐにょんしていた。 広がったり、狭まったり、急に大きくなったり、小さくなったり。 最近はそういう感覚なくなっちゃった。(でもいつかもどってくると良いな)

最近は、妙にのらいぬ感覚が強い。 日本のエッセイで、負け犬の遠吠えってあるじゃん。 あれのね、負け犬でも、勝ち犬でもなくて、その戦いのリーグ上にすらたっていない犬って感覚があるのよ。

特に震災以降この感覚は強くなった。 私は日本にいないから、多分この震災を全く違う形で経験しているのだと思うの。 奈良美智さんが、twitterで"最近になって、あの地震のあった停電の夜、目に見えない放射能におびえた時間をリアルに体が思い出したりする。自分も被災しているのだという意識。いや、日本という国自体、そこに住む人々みんなが被災したのだ。"って書いていたのを読んで、特にそう思った。 

私は、情報としてはその時、多くの人達が停電の中にいた事は知っていたけど、多分、聞き流していたんだと思う。 情報としては知っていた。 でも感覚としては掴んでいなかった。 奈良さんの文章には、すごくはっとさせられた。

震災があった日、私は震災直後からベッドに座ってこうこうと光る電気の下で、インターネットを使ってlive映像をCNNやBBCやNHKで見ていたんだ。 日本の家族とは連絡がとれなくてすごく不安だった。 大学時代からの友達が横にいてくれて、二人で「意味が分からない…、頭が全くこの情報に追いつかない」と言いながら、ずっと日本に関するメディア情報を見ていた。

どこかで日本の人も、そうやっていたのではないかと思ってしまっていたのだろう。

「ただただ激しい津波と震災の映像、原子力発電所の爆発がどこかランダムな所でおこっていて、たまたま日本の人達も全員それを見ている、怖がっている」という感覚的な勘違いを私はしていた。 全く違うのだ。 日本の人達はその映像の中にいたのだ。 いや、分かっていたし、痛いほどそれも感じていたけど、それでもどこかでは感じきっていなかったのだろう。 

もし私がその時日本にいたら、今の私とは全く違う経験をしただろう。 何よりも「私にはその時の私がどう感じたか、何をしたか、全く想像もつかない」と思ったとき、"現実の私"と、"日本の想像上の私"は全くの別人になった。 これまでは結構ある程度は「今日本にいたら」ってのの想像がついた。 今回の事に関して言えば、自分が一体どんな反応をしたかすら想像がつかない。 この感覚を日本での生活に関して持ったのは産まれて初めてで、初めて日本から切り離された感じがした。

切り離されている感覚は日常的に結構ある。 オークランドは多民族都市だ。 隣の人とカルチュアルバックグラウンドが全く違うってのいうのが日常。 「例えば私がこの家で産まれたら」ってのの、一日分も想像がつかない場合が多い。 一日の生活パターンも、家族感も、国家感も、興味も、宗教も、大概なーんにもわからない。 彼らが家で何語を話しているのかすら知らない事が多い。 文化的に彼らが大抵何歳で成人して、何歳で結婚するかなんかも全然わかんない。 個別のケースは結構知ってるけど、それがどれぐらいの普遍性があることなのかすらわからない。 要するに、想像つかない。

最近そういう感覚がすごく強い。 「周りの人の一日の生活が想像がつかない、自分がその立場だったらってのの想像もつかない」っていう事が多い。 それでも仕事とかでは一緒に働けるし、「社会のルール」は共有出来ているけど、プライベートの共有での共有できていない感はすごく強い。 それで、「ああ、のらいぬだ」と思うようになってきた。 たまたま、環境的に、時期的に、私は著しく、自分と共感し合ったり、「ああ、それね」って感覚で人と話す機会に恵まれていない。 しかも私対、他のグループではなくて、私対数えきれないぐらい沢山のグループに別れている。

新しい環境の内部に入れば、ガリバー旅行記になる。 今は私は入っていない。 入っていないなりに楽しもうと、のらいぬ狂想曲を始める事にした。 合い言葉は、「一応、くんくん匂いはかいでおけ!」

2011-07-19

ヨガヨガ

瞑想とか、リラックスとかが結構苦手だ。 たまにヨガのクラスとかでやるけど、その度に自分の嫌なところとか、人にした嫌な事とかが頭にフラッシュバックしてしまう。 それでクサクサしちゃうんだよね。 その瞬間は自己嫌悪の塊だから、自分に何か良いところなんて一つもないような気分になってしまう。 瞑想しているふりをしながら、実際の所はかなりの自分征伐だ。 そんなんじゃリラックスなんてできやしない!

多分、少しは私にも良いところがあると思う。 これまで全く評価出来ない人間なんて会った事ないし、良い友達多いし、だからきっと私にも良い所はあるはずだ。 多分自分がそれをカウントしていないだけで。 私が私を評価する基準は、とても浅はかで、かなり表面的だ。 で、自分の事を評価出来なくて落ち込む。 ついでに自分のした失敗とか、酷い事を思い出して、余計にクサクサする。

そのスパイラルから抜け出したいと思い始めた。 だって、リラックスしたいし、瞑想の間ぐらい、「おいおい、私、とんだビッチじゃないか」って考えから抜け出したいじゃないか。

自分自身に対してある程度公平で、そして誠実な評価軸を持ちたいなと思った。 自己嫌悪とか、自分征伐とかだけじゃなくて、誉めれるところは誉めたいし、評価出来るところは評価したい。 信仰を持たない分、多分私はいろんな所から自分自身に求める質を探していかなくてはいけないんだ。 で、副産物としてリラックスの方法を体得したい。 

そんな事をヨガのクラスの帰り道に思った。