日常的に2006年に日本で見たソットサスの展覧会(エットレ ソットサス 定理に基づいたデザイン)の前文を思い出す。
なぜシャンパンは紙コップに注がれないのか。殺すための剣はなぜ彫り物で飾り立てられていたのか。なぜバイクのデザインはいつも速さを連想させるメタファーを表現しているのか。なぜ娘達やご婦人は何かの祭壇のように、いつもテーブルや家具の中心線上に、花を生けた花瓶や彫像や親、子供の写真立てを飾りたがるのだろうか。教会の祭壇の中心線上に設けられる小さな壁龕のように。
デザインの背後にはいつもほんの一瞬の沈黙が隠されている。何かがやって来る、もしくは何かが起こる期待感。ひとつのデザイン、ひとつのプロジェクト(企て)がこの世にすえられた瞬間、それを手がけたものには責任が課せられる。バイソンを殺すために弓矢を使った者は、バイソンに許しを乞うことになるだろうし、敵を殺すために剣を使うことは、血が噴き散るということだろう。テーブルの上にスープの皿が添えられていたら、その皿を与えてもらえる幸せも感謝したくなるだろう。デザインという定理は実に晦渋なものである。
本当にそうだね、ソットサスさん。
デザインの背後に隠れている一瞬の沈黙は歴史の扉が開く時間でもあると思う。
私は引っ越しが多いので出来るだけ物を持たないようにしている。 だからあまり物にはこだわらないようにしている。 それでいつか家庭を持ったり定住した際には、きちんとした物がそろえたいなと希望に胸をワクワクさせている。 特に台所用品なんかはそう。
でもカットラリーは引っ越しのときにそんなに場所をとらないので、結構贅沢をしている。 他の部分でその夢がかなわない分、妙に気合いが入るのだ。 日常使いでは、ライヨール のカットラリーを使っている。 「君は実は包丁なんじゃないかい?」ってぐらいにナイスな切れ味で、でも細身できれいなところがとても気に入っている。 あと、全近代な仰々しいデコレーションも気に入っている。 それに比較的重いんだ。 私はよっぽど近代的でシャープでモダンな形のカットラリー以外は、軽いカットラリーがみみっちい気分になるからなんかいやだ。
ふしぎとこういう細かい事が日常の喜びにダイレクトに関係している。 例えば柳宗理のデザインしたカトラリーはとても買いやすい値段なのに、非常に美しい。 私はそういうのを見ると、結構真面目にデザインの力とか、物の背景に潜む形の歴史の積み重ねに感動してしまう。 生活の叡智と愛が詰まっているのだ。 私の小さな、でも積み重なってしっかりとしていく喜びに、良いデザインは直結している。
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