2011-10-27

聖者の行進



職場の同僚が半年仕事を休み、日本とタイにボランティアに行っていた。 

石巻で泥かきをしたという話しを聞き、お礼がしたくて週末にうちでお昼をごちそうした。 こういうときは手巻き寿司がうけが良い。

かなり敬虔なキリスト教徒の彼女は宣教師になりたいんだそう。 世界中にある彼女の属している教会が若い人を集めて宣教師になる為のトレーニングをしているから、それに参加したらしい。 宣教活動とボランティア活動は同時に行われるんだそう.

他の同僚に、「彼女宣教師になりたいんだってさ」と言ったら、ぶち切れられた。 その同僚はインドで育ったので、ずっと宣教師を撲滅するためのボランティア活動を地元で家族ぐるみでしていたそうだ。 勿論マザーテレザも嫌い。 「キリスト教徒の白人がガリガリの有色人種の赤ん坊にキスしただけで聖人だ。山ほどのインド人が貧困や差別をなくす為に家財放り投げ出して、人生注いで頑張っているかを知らない奴らしかあんな茶番は信じない。そもそも人を助けるのに、どうしてその助けられる人が洗礼受けなきゃいけないんだ???」とキレ始め、「お前もパシフィックエリアに住んでるんだから、宣教師達がポリネシア人達に何したか知っているだろう!!!!!」と烈火の如く怒っていた。

宣教師ってのは、やってる人と助けてもらった人の一部と、信者になった人達以外からは非常に評判の悪い眷属だ。

「言ってる事はわかるけど、でも私を育ててくれた社会の人達に助けが必要なときに、わざわざそこまで行って、いっぱい働いてくれたんだ。 私は凄く感謝している。 溺れている人や、火事になっている家が目の前にある時に、そこに飛び込んで人を助けられるってのは、尊い事だ。  心からお礼がしたい。 お礼がしたいし、彼ら目線での話しも聞きたい。 とりあえず君は彼女を招いてのランチには呼ばない。」と言って私は話しをたたんだ。

「お互いの言い分は分かる。 そして、私には特に意見はない。」といつも通りの態度をとる。

余計な喧嘩はしたくないし、そもそも喧嘩出来るほど私はには知識もないし、喧嘩する前に話しを聞いてどういう動機があるのかが知りたいと思い、その日は彼女の他にも職場の福音派キリスト教徒の人達や、その人達の家族を呼んだ。

食事はすごく楽しかったし、彼女の目線を通じての日本の話しも面白かった。 温かさや、彼女の持つ素朴な好奇心や、日本に対する尊敬や、現地に行って、見た人達の持つ「日本にはまだまだ助けが必要だ。これからも続ける。」という態度には心うたれた。

私は日本を愛しているから、日本に助けが必要なときに助けてくれた人が誰であれ、心から嬉しいのだ。 そして宣教師の団体は大抵ボランティアのプロだから、すごく手際がいいし、組織立っているし、基本的には善良な働き者だ。 そもそも日本人には宗教持ってないと不安って感覚がそんなにないから、宣教師にあってもそんなに反応しないだろう。

彼女は日本の他にもタイのスラムにある教会でボランティア活動をしていた。 元売春婦達にキリストの教えを伝え、教会で食事と住処を与え、回春をしている西洋人達に「どうして売春を必要だと感じているのか問いかけ、反応があれば話し合う」んだそうだ。

私のタイの友達はエリート階層の人が多い。 そういう子たちは自分の国の貧困の話しは恥ずかしいし、プライドが傷つくからしない。 あたかも先進国ですって感じで話す。 なので私は「タイにはスラムや貧困があるし、人身売買がすごいらしい」というのは知識として知っていても、なんだかかピンときていなかった。

なので彼女の目線と経験を通じたスラムの話しを聞いて、すごく驚いた。 かなりシビアな事がおこっている。

政府に出来る事は限りがある。 たとえ政府が100%の行動をスラムにしても、取りこぼしはおこる。 そして現実では全くたいしたアプローチを、政府はしていないそうなので、取りこぼしばかりだ。 そういうところは、個人が協力し合って支えあっていくしかないのだろう。 投票活動などを通じて、政府を動かす事と同時に、個人として他者を助ける活動は両立させなくてはいけない。 話しを聞いていてそう思った。

「誰かを助ける事と、その人をキリスト教徒にする事は同じ事なの?」と聞いたら「最終的には一緒。 人は幸せに、そして愛し合えるように神様によって作られている。 その状態が自然。 その状態に人を戻してあげる事が、救済なんだ。 神様を知れば知るほど、救済にはそれしかないと分かってくる。」と言われる。 まぁ、そう考えるんなら、人助けとキリスト教徒にさせる事は一緒よなと聞きながら思う。

こういう時お互いの間にちょっとした川が流れる。 私は「なるほど」と聞いている。 でも私には明らかにキリスト教徒になる様子も、そしてアブラハムの神を信じている様子もない。 相手からしてみたら、「理解は示しているのに、自然な状況に戻れていない罪深い人」なんだろうなと思う。

お互いが川を渡る気ゼロ。 ここで「そんなもんさ」と思えるのは、私に宗教的素養が少ないから出来る事だろう。 なんでも「文明違いますから」で片付けられる。 宗教的な人間同士だったら、どっちが川を渡るかで一悶着だ。 「私が神様信じているかどうかよりも、この私のイージーゴーイングぶりを評価してくれよ」と思う。

「ある程度成功している社会がある、そして明らかに機能不全な社会もある。 国家レベルでも差がある。 その差はどうして出来るんだろう」と私が言ったら、その場にいた人達に「キリスト教が基礎の社会か否かがその差を作っている」と断言される。

「ニュージーランドのカソリック団体がワールドカップに参加している20カ国の、社会の平等さと公平さを比べた調査によるとね、日本がダントツ一位で最も公平で平等な社会を実現しているんだよね。 そして日本はキリスト教ベースじゃない。」と一応言って、「じゃあ、日本はエクセプション」というふうにまとまった。

途中ヤノマミの話しが出て、「赤ん坊には魂がまだ宿っていないからって、嬰児殺しをするなんて信じられない。 神様を知らなすぎる。 彼らにたいして宣教する必要がある。 神様が作られた人間がこれ以上殺されるのは許されない。」と言い出したときは、「出たっ!」と思った。

結局夕飯の時間位まで色んな話しを聞いて、話して、それはそれは楽しかった。

多分彼女達からしてみたら、キリスト教的影響を私に与えられた事に喜びがあっただろうし、私からしていたらこんな文明もあったのかと興味深かったので良かった。

実感として、自分が宗教的な人間じゃなかったから出来た事だよなと思う。

時々、もし私がアブラハムの宗教のどれかの信者になったり、キリスト教宣教師達に日っちゃかめっちゃかにされた国出身とかだったら、どんな感じなんだろうと想像する。

ボーンアゲイン クリスチャンになったりすることって、自分の人生でおこったりするのだろうか。 なってみたい気もする。 でもならない気がする。


No comments: