2011-07-06

Cy Twombly

最も愛する芸術家の一人、Cy Twomblyが亡くなった。 なんて偉大な作家だったんだろう。 彼の作品の事を思うと、胸が熱くなる。 私は彼の作品を通じて世界を見たし、世界を感じた。 触られているような、暖められているような、慰めされているような、そして慈しまれているような気持ちにいつもさせられた。 私は、とても多くの世界の襞を彼の作品から感じた。

彼は私の年上の友人にとっての「私の作家」だったから、おおっぴらに、Cy Twomblyが私の作家だとは言い出しにくかった。 だから公的には同じぐらい大好きなRobert Rauschenbergが「私の作家」という事になっていた。 

(だからといって、彼の作品を愛していない訳じゃない。愛ってのは一度その中に落ちると、永遠にその中に残る事になる。 そして私は落ちたから。 ただ、公然たる「私の作家」じゃなかっただけで。)

ああ、本当に悲しいね! 好きな作家の命がこの世の中から無くなってしまうっていうのは本当に悲しい。 会社からの帰り道、ふと「今、地球上のどこかでは彼も生きているんだよな」と思う事が出来なくなるから。

バルトの美術論の中にあるCy Twomblyに関する文章は本当に最高で、絶対にだれでも一度は読んだ方が良いと思う文章。

私は、初めて読んだときに、いてもたってもいられなくなって、恋に落ちていた相手のオフィスに行って、「たった今すごい文章を読んだ! 心臓を下から、大きな掌で、ぐっと支えられて、持ち上げられたような気分!!」と宣言をした。 それ以降、彼のパソコンの横に、ゼロックスでコピーされた、冗談でも上質とは言いがたいCy Twomblyの作品が飾られる事になって、私はそれが嬉しかった。(実際、今思い返しても、なかなかに温かい気持ちにさせられる)

日常で、理性的に考えようとするたびに、合理的にいようとするたびに、社会に”適応”しようとするたびに、私の中にあるそういう思い出は迫害される。 あまりにも稚拙で、不器用だから。 それこそ、「左手で書いた文字」のような経験だから。 不器用で形なんてあってないような経験だから、落としどころがなくて、出来る事ならなかった事にしたいと思ってしまう。 でも、同時にプレシャスだから、絶対に手放したくないとも思っている。

右手で築き上げていく日々の生活の中で、どうしてもうまく消化出来ないコンフリクトに溢れた思いを、ただ納める為の空間が、彼の作品の中にはあって、私は疲れる度に彼の作品を見る。

触り合うためには、若干神経過ぎる事。 でも一緒にいるだけで相手の温度を体のしんから感じる事。 カジュアルでいる事を重要視する事。 基本的には保守的な事。 でもおおらかな事。 できるだけ、できるだけ自分自身を開こうとしている事。 瞬間瞬間に変化する事。 内側からの光が見える事。 温かい事。 色気がある事。 生々しい事。 嬉しい事。 彼の作品は、「こういう人にキスをしたいね」っていうクオリティーで溢れていて、私は他者を求める気持ちでいっぱいになってしまう。 以前、彼の作品にキスしちゃって逮捕された人いたけど、人ごとじゃないよ、まったく。

今日は寝室に飾ってあるCy Twomblyの作品の額縁を、ピカピカに磨こうと思う。 勿論これも作品をコピーしただけのものだけど、SFMOMAが「200年保ちます」と保証しているコピー。 ゼロックスのコピーとは違う。

ああ、世界にCy Twomblyの作品があってよかった。 あなたがいてくれて、本当によかった。

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