2011-09-25

のらいぬの楽しみ

職場で唯一の日本でいるってのは非常に楽しい経験である。

なぜならば自分以外の人全員と慣習が違うからだ。

想像してもらいたい。 自分以外全員が自分と違う文化圏で育った人達の中にいる状況を。 自分がその場で「かなり外国人度の高い人」でいる状況ってのは、なかなかに楽しいものである。

毎日が世界ふしぎ発見で、エンターテイメントが向こうから勝手にやってくる。 そして素晴らしい事に、その向こうから勝手にやってくる文化・風習・慣習ってのは、大概にして面白く、質が高く、「人類って良いなぁ」と思わせられるものである!

私は「出来る女」とか「国際間をまたにかけるエーリート」みたいな"お姿"は反吐が出るほど嫌いだ。 というか、あまりにも自分と性質が違いすぎて、なりたくてもなれない。 同時に「外国や冒険が大好きなバックパッカー」ってタイプでもない。 かなり実用的な理由で日本で働く事より海外で働く方が絶対に得が多いなと思ったから海外に暮らしているだけだ。 日本にいた方が得が多そうなら日本に帰る。 それだけの事。

損得勘定だけで選んで暮らしている場所で、それでも飽きずにいられるのはある程度"ふしぎ発見"とか好きだったからも知れないと思う。 ドキュメンタリー映画とか、ヒストリーチャンネルとか、ナショナルジオグラフィックとか、なんだかんだで興味はある。 恋愛ドラマとかよりかは比較的親密にそういう番組を小さい頃から見ていた。 そして何よりも現代美術が好きだった。 私は90年代のマルチカルチュアリズム花盛りの現代美術を見て育った世代だ。 この価値観が私に与えた影響は半端なくでかい。 ほとんど一体化していた感じがある。
「多文化主義」。1990年代に入るや否や訪れた50年近くに及ぶ米ソ冷戦構造の崩壊は、従来の西洋中心主義的な価値観の大幅な更新を迫ることとなった。現代美術の場合、それはモダニズム芸術観の克服というかたちで顕在化し、以後、「ヴェネツィア・ビエンナーレ」や「ドクメンタ」などの国際展で、多くの第三世界出身の作家が高い評価を受ける契機となったのである。現代美術のメイン・ストリームといえば、それ以前には、J=M・バスキアらの僅かな例外を除き、大半が西洋出身作家によって占められていたのだから、この転換は画期的なものであった。現在のところ、美術における「マルチカルチュラリズム」の先鞭は、1989年にポンピドゥー文化センターで開催された「大地の魔術師たち」展で付けられたとするのが定説である。作家の国籍や民族を問わず、一切の出品作品を現代美術として相対化しようとするその視点は、多くの批判があったとはいえ紛れもなく先駆的なものだった。もちろん、相対化を意図しつつも、フランス人である企画者J=H・マルタンが自らの主体性はしっかりと確保しようとしていた、という批判は大いに当たっている。日本におけるアジア美術の例を出すまでもなく、「マルチカルチュラリズム」の問題は、その立場を唱える者の位置を必然的に問うことで、「ポストコロニアリズム」とも密接な並行関係を形成しているのである。 [執筆者:暮沢剛巳]
自分の思春期と、美術のこのトレンドが合致していたのは、本当に幸運だったなと思う。 "国籍や民族を問わす、一切の出品作品を現代美術として相対化しようとするその視点"は確かに私の中に強くある。 誰もが「今日を生きる人」であると思うから、別に相手の文化がどう自分のと違おうと、強く惹かれるし、自分自身の文化と同じ位に今日的で、興味深い物だと思えるのだ。

「現代美術が好きだった」ってのは、他人の文化とか慣習とか歴史の中に自分自身を発見する技術を身につける為の非常に大きなゲートウェイだったなと思う。

美術業界は他のどの業界よりも多分グローバリゼーションが早かったのだろうと思う。 そしてかなり明確に「西洋圏で評価されないと、芸術として世界に残らない」という悲惨さに対して自覚的で、その問題が話しの一つの焦点になっていた。 そういう反省とかがどうどうと一番大きな話題になれるのが美術の"自由さ"とか左っぷりなのだろうと思う。 そしてこれは子供に与える教育的素材として、かなり、控えめに言っても「素晴らしい」ものだと思う。 自分自身の心の余裕とか、立場のノーサイドが与えてもらえるという意味でも、現代美術の持つ独特さは素晴らしい。

「日本人は青年期に外国人としての暮らし方を教わるチャンスがないから、大人になってから海外で働こうとか暮らそうとしてもハードルが高い。」とこの間日本から来ていた法律家の人が言っていた。 ごもっともだと思う。 また日本には植民地や旧植民地がないから、単純に内地以外で働こうと思っても、簡単に引っ越せる場所もない。

で「外国人として暮らす方法を学ぶ機会」ってのを考えたときに、私自身がぱっと思いついたのは、やはり「なんだかんだで現代美術勉強していてよかった」ってことだった。 現代美術の勉強が多分それについての手っ取り早い方法だったのだ。

その「自分が気がつきゃ外国人だった問題」にぶちあたり、苦悩した人達が積み立てた「打ち勝つ為の方法論」が山ほど詰まっているのが現代美術だ。 日本にも李禹煥がいる。 外国人でいる事のプロ中のプロだ。(本当に私は彼の存在を知らなかったら、もっと傷つきやすかっただろう)

自分の子供とかが思春期を迎える頃に、現代美術のトレンドになっているものはなんだろうと考える。 想像もつかない。 でもとりあえず絶対にそれにどっぷりと浸かれるような環境は提供したいと思う。

そしてやっぱり「人生で一度は"自分以外自分のカルチュアルバックグラウンドを持っている人がいない環境"で苦労してみろ」とどっかに追いやるんだろうなと思う。

それ以外に良い教育って思いつかないんだよね。


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