2011-08-13

フラットな世界

最近…、私の住んでいた地域の世相がやけに悪い。 日本、ニュージーランドの大震災。 引き続いてイギリスの暴動。 どうした…、地球…及び、人間社会。

今回のロンドンの暴動を見ていて、私がイギリスに住んでいた頃に思っていた「この国で私は大人にはなりたくない」という感覚がぐっと引っ張り出されてきた。

イギリスは楽しい。 お買い物も楽しいし、人も面白いし、遊びもあるし、田舎町綺麗だし、他のヨーロッパの国も近いし。 とても良い学校に行ったから親密な感情も、大切な思い出も愛着も沢山あるし、友達もいるからいつでも繁栄を祈っているし、応援もしている。 全く攻撃する気も、意見をする気もない。 ただ私は今のところ住みたくない。 フルストップ.

私にとってイギリスは、始めて長く住んだ異文化圏だった。 その頃の私は既にローティーンだったので「世界ってこうあるべき」「世の中ってこんなもの」ってのが日本を基準にして結構出来上がっていた。 なのでカルチャーショックはかなり大きかった。 私の属していた日本の社会の一グループの中では、「世の中ってのはフラットで狭くて、永遠と暢気な日常生活が続き、大概の人達は日本人で、日本のミドルクラスの生活様式が世界のデフォルトであり基準である」ってのが確かにあったと思う。 ついでに「景気は今は悪いけど、まあもうすぐ峠を越えてよくなるよ」って感覚もあった気がする。 (ああ、なんたる田舎者…! その暢気さに乾杯!!)

なのでそれまでここまで開けっぴろげな経済階層差を見た事もなかったし、単純にこんなに沢山の人種がいる場所に住んだ事無かった。 当時の私からしてみると、イギリスは振り幅や高低差が広すぎた。 ひっちゃかめっちゃかだった。 「なにこれ…、やりたい放題じゃん…。」と極東の田舎者児童が呆然としたのは必然。 みた事もないようなお金持ちと、みた事もないような貧乏な人がいっぱいいた。 特に、この「貧乏な人達」には心底驚いた。 マジで、がちょんとなった。

起っている物事の量と意見の幅から、感覚的にこの場所はリスペクトするべき場所だと分かった。 色んなものが集まってくるからこうなるんだろう。 文化の軋轢や社会の複雑さは、様々な実りと豊かさを生み出す。 それってすごいな、面白いなと素朴に思った。 このひっちゃかめっちゃかな感じや驚きは大切に自分の中に受け入れようと思った。 日本の私のいた環境は様々なふるいのかかった新興住宅地的環境だったのは分かったし、それもかなり早い段階で「あれが特殊だったのだ」と受け入れた。

ただ、軋轢や複雑さは、同時に過酷さや残酷さも作り出す。 競争も激化させる。 競争のルールも明確に見えてこないのに、それでも競争が厳しそうなのは分かった。 この面に関しては私には強い抵抗があった。 単純に「ここで私が私の代から社会活動を始めてミドルクラスになるのって滅茶苦茶難しいのではないか?」と14歳の子供でも思えるぐらいに競争と淘汰が激しそうだった。 そしてここで大人になるのはいやだなと思った。(この感覚が保守的ミドルクラス出身の子供の持つ内なる醜悪)

イギリスには日本やNZよりもずっとリベラルな意見を言う人達が多いし、面白い人達も多い。 文化の層も厚い。 ずっといろいろな事が起っている実感がある。 でも、それらの魅力よりも、私は保守的な感覚を選んだのだと思う。 「私が私の代から社会活動を初めて、それでもミドルクラスになれる。その間の競争が比較的マイルドである。」というのが当時の私の求めた生活の質だった。 そしてイギリスでだとそのハードルは非常に高そうだった。 保守的でいる事で、面白みが人生から欠けるのは残念だけど、当時の私は次の数年間をこの競争にホットになれるだけの気力も体力も持ち合わせていなかった。 かといって、競争に対して超越的でいられるだけの度量や勇気や生活の知恵も持っていなかった。(この感覚も保守的ミドルクラス出身の子供の持つ内なる醜悪。 要するに自分自身がたいしたアセットを持っていない感覚は強く持っていた。)

そういう感覚を持っていた人達がわざわざ地球の裏側に引っ越して作ったのがオセアニアなのだろう。 オセアニアの社会は、勿論貧富の差や社会問題も沢山あるけど、それでも私が持っていた日本的な感覚にはイギリスよりかは遥かにマッチした。 そしてことあるごとにここがイギリス(もしくは他の移民達にとっての祖国)への反応で出来ている場所だなと思う。 結果として、いろいろと比較的マイルドである。 必至でマイルドにしている感じがある。

今ではそこまで素朴に「私の代から始めても、そこまで激しくない競争の末ミドルクラスになれる」とは思っていない。 物事はそんなに単純じゃないってことぐらいは分かってきた。 でもやっぱりこの社会(NZ)にいる限りは「そこまで底抜けに下に急降下する感じはない」気が、幻想でもある。 そしてこの社会ではイギリスほど階層差が出来ないような幻想もある。 自分でもどこまで保守的なんだよと思うんだけど、結構私にとってはこの感覚が、幻想であっても大切なのだ。 ある程度の自由と、生活の余力は求めるけど、それ以上は求めない。 そして、そのかわりにその逆も求めない。 社会にどれだけお金持ちがいるかよりも、どれだけ貧しい人が少ないかの方が大切な気がするのだ。 あれだけ貧しい人達がいる場所って、いると結構凹むよ。 「私もこうなるのか?」って思っても嫌な気分になるし、「自分は恵まれているからこうはならないだろう」と思っても嫌な気分になる。

勿論NZの人達が持っている「大人になったら一度はイギリスに住む」っていう感覚は私も持っている。 もうちょっと生活に対する基礎体力がついたら一度はイギリスに住みたい。 子育ての環境も、子供が思春期に入ったらイギリスの方が良いような気がする。 それに子供時代に感じたイギリスは、私の幼稚さからくる歪んだ景色だったのか、それともそんなに外れていないのか、結構試してみたいと思う。 

イギリスの暴動のニュースをみながら、一人で結構悶々としてしまった。 「こういう感じが嫌だったから、イギリスは嫌だった」という感覚と「でもどうなんだろう…? でも楽しいことも多いぜ?」という感覚とがせめぎあう。 多分、今世界中のイギリスの植民地にいる人ががこの微妙な感覚を持ち合わせながらニュースを見ているのだと思う。 「これは我が身だったのか? それとも自分はもっとうまくやったのか?」と。

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