2011-04-19

 まず、クライストチャーチが被災しその直後に今度は日本が被災した。 そしてそれ以来日本は、ずっと被災し続けている。

この一連の出来事は、心境的に、結構私を前後不覚にさせた。 右頬を平手打ちされた直後に、左頬を今度はハンマーで殴られたような気分になった。 ついでに、原発問題で、頭の上にタライが落ちて来た感じがした。 完全に混乱してしまった。 目の前にチカチカ星が見えた。

それ以来、私が私の生活を送る事で傷つく人や、損なわれる人なんていない筈なのに、つい最近まで気持ちに余裕をもったり、落ち着いたり、何かを楽しむ事に強い罪悪感と、嫌悪感があった。 とても混乱していた。

結局のところ、私は被災していない。 非常に幸福な立場にいる。 なのにこうも取り乱した。

いつも左耳から、クライストチャーチのニュースが入り、右耳から日本のニュースが入る。 それだけで私を取り乱すには十分だった。

最初は、失われた人命の数と被害の規模に圧倒され、猛烈に悲しかった。 自分を育ててくれた社会の方々の死が、ただ悲しかった。 明るい気持ちになんてなれなかった。 出来る事をしようと思い、親しい人達に手紙を書いたり、職場で日本の為の昼食会を開いたりして義援金を呼びかけた。 チャリティーサイトの為の翻訳をしたり、直接被災地に救援物資が送れるようになってからは、物を送った。

ただただ悲しかった時期は、喪中なのだから仕方がないと思っていた。 圧倒されて当たり前だ。 悲しくて当たり前だ。 自分を生み出してくれて、育ててくれた社会にこれだけの悲劇が襲ったのだ。 私を育てた社会の人々が失われたのだ。 私の属する社会の人達が愛する人を失い悲しんでいるのだ。 悲しくない訳がない。 自分の中で、どくどくと流れる悲しみは、当然のものだと思えた。 悲しかったけど、その悲しみには納得していた。

二、三週間前から、今度は、名前も知らない変な感情の渦に自分が飛び込んでいった感じがする。 余裕をあえて自分から奪っていっていた。 勿論、そもそも感情に余裕がなかったってのもある。 でも私は多分、実際よりも多めに余裕を失っていたし、私が焦る必要なんてないのに、終止焦っていた。 被災地の状況に焦り、原発の事でも焦った。 

焦っても目の前には日常の生活があり、焦りをどう消化していいのか分からなく、ただ家の中で一人で焦り、アマゾンの被災地のウィッシュリストで買える物が無くなると、次は生活から精神的余裕を奪って、そして疲れて、やっと寝れた。 多分、私は積極的に焦り、余裕を失っていた。 自分がそうしたくてそうしているとしか思えない焦りと余裕のなさだった。 

こういう感情をなんと読んだらいいのかは分からない。 焦る事で、被災した方々の疑似体験をしようとしているのだろうか。 そんな事して一体何になるのだと思うのだけど、止める事が出来なかった。 

全ては悲しみから来ているのだと思う。 「昨日が失われた事が悲しい」という感情が、地震の起った日から続いている。 特に、日本の震災に対しては、喪失感が大きい。 パラレルワールドに投げ込まれてしまったような気持ちになってしまう事がある。 現実で起っている事のスケールに、自分自身がついていけず、処理しきれていない。(最も、この規模の悲劇にちゃきちゃきと対応できる人がいるのなら会ってみたいものだが) 文字で書くと、「こいつ大丈夫か? ただの馬鹿なんじゃないか?」と自分に対して驚いてしまうが、正直な感想はそうなのだ。 私は未だに起った事を受け入れていない。 そんな事がある筈がないと、どこかで思ってしまっている。 それが不必要な焦燥感をうんでいて、変な結果として自分から余裕を奪っている。

まだ震災前と、震災後がうまくつながっていないのだ。

No comments: