2011-05-19

HATSUKOI





どこか懐かしい。 90年代後半のさわやかさや自由な感じを思い出す。
同じ時期に思春期を過ごした者同士の持つ価値観の共有。

2011-05-07

お金がない

浪費しすぎた。 本当にお金がない。 今週、どう乗越えたら良いのだろうか。 芋の皮でもかじるか。 ジャパセンで柿の種買い占めして、見事にお金がつきてしまった。 むむむん。 クリエイティブに過ごさないと、かなり厳しい気がする。 こんなに手持ちのお金がないの仕事始めて以来始めてだ。 困った〜。

友達の友達はウヒョッ

友達と自分は大抵似ている。 だから自分の周りは自分に似た人ばかりになる。 そしてなんとなく「世の中ってこんな感じ」って勘違いしながら暮らす事になる。 

そんな錯覚にあふれた真空状態から、ポンと抜け出す瞬間ってのがある。 そういう時は「ウヒョッ!」ってなる。 ウヒョ・モーメント。 心の中で、ひょっとこみたいな顔面表情をしてしまう瞬間だ。



ウヒョッ!



例えば、選挙。 なかなかの、ウヒョ・モーメント。 私の周りでその政治家を支持している人なんて一人も会った事がないって人が、ダントツで当選したりする。 世の中には私と利害関係が全く一致しない人たちがわんさかといるのだと知らされる瞬間。

あと本。 「こんなんどこの誰が興味があんだよ」と思うものが案外売れている。 誰かは買っているのだ。 量的には私の興味がある分野の本より興味がない分野の本の方が圧倒的に多い。 なぜなんだ? 私の世界では、工学とデザインと建築と美術の本以外、本屋にある必要なんて特にないのに。 ここでもうっすら、「ウヒョッ! もしかしたら私は真空状態の中にいて、世間の幅広さを知らんのかもしれん。」と思う。 もしくは、社会の片隅に大きな穴があいていて、そこに私の興味のない本をじゃんじゃん投げ込まないと、社会そのものが穴に引きずり込まれてしまうっていう困った状況があるのかもしれない。 でもそんな穴は、多分、ない。

そして圧倒的にウヒョッ・モーメントなのは、「友達の友達」に出会うときだ。 特に友達の古い友達(幼少期からの友達など)に紹介されると、ウヒョってなる。 距離が近いから油断している分、差に驚く。 完全にウヒョ肝を抜かれる。 まさに、一寸先は闇。 友達の友達はウヒョ。



ウヒョヒョヒョヒョッ

 こんな世界があったのかの連続だ。 「友達の友達」って距離感で自分が「世界」とか「世の中」と思っていた幻想が音を立てて倒れる。 心の中ではひょっとこが踊り狂う。

 仲がいい男友達に紹介された女の子がギャルだったとき。 友達の友達が妙にアラサーだったとき。 友達の友達が同い年とは思えない程に立派な人だった時、心の中はウヒョで溢れる。 ああ、世界ってのは広い。 思わず、「私、こんなんで大丈夫?」となる。 そしてその刺激にいつのまにか中毒。 もっと、もっと驚かせてとなっていく。 心のひょっとこは多い方が良いね。 選挙結果とかだとシャレにならないけど、友達の友達が若干異界の人だってのは、大抵素敵だ。

 踊らせておくれ、おいらの心のひょっとこ。

2011-05-04

ちょっとだけ

別にたった今にでも、とか、誘拐してでもとか、夢にまで見るとかってのではないのですが、
ほんのりと最近子供が欲しいなぁと思うようになってきた。

数年前よりかは、結構「期は熟して来ているぜよ」って実感もある。 こういう感情を持つようになったりするもんなんだね。

って言っても、向こう数年はちょっとまだ具体的には考えられないけどさ。 

周りの男の子たちも、立派になってきた気がする。 なんかみんな年々素敵。 時々、この子と結婚して子供が産まれたらどんな感じなんだろうと思う。 結構いろんな人に対して思う。 大概「結構なかなかに素敵なんじゃないだろうか」と思わさせられる。 ここは私が一気に素晴らしい感じの女性に生まれ変わって、同じような感情を誰かに持っていただく必要があるだろう。

まあ、現実問題私が夢にまで見るほどに欲しいものは、柿の種なんだけどさ。
(夢で特大サイズの柿の種を買った。超嬉しかった。食べる直前に目が覚めた。)

大学の同級生の男友達とサルサの授業を受けている。 過換気症候群になってから「お前もうちょっと運動するべきだ」という運びになり、サルサのクラスをプレゼントしてもらった。 これがとっても楽しい。 

"ブラジャー燃やせ"ってタイプのフェミニストの人からしたら吐き気がするだろうし、ゲイの友達にも申し訳ないが、「男性と女性の社交」って感じがとても楽しいのだ。 見つめ合ったり、微笑み合ったり、甘え合ったり、ふざけ合ったりしながら二人で踊るってのは本当に良い。 「良いじゃんこういうの!」ってなる。

それでなんか子供がほしくなった。

こういう感じで毎日が過ぎていって、温かさとか、キラキラした感じとか、生命力が蓄積されていくと良いなと思う。

よしもとばなながエッセイで、小沢健二の音楽を阪神大震災や地下鉄サリン事件がおこった後での日本の音楽だと言っていたのを思い出す。 よしもとさん、あなたの小説も結構そうだと思います。 世代的なものなのか、それとも好みの問題なのか。 ある日、いつも、ふとした瞬間に彼らが歌っているような景色が胸に広がる。 温かさや、生命についての景色で胸がいっぱいになる。

しかしとりあえず今は柿の種が欲しい。 ぐわしって掴んで、ぼりぼりと食べたい!

未来の事

職場で未来の事を考える会があった。 とても面白かった。

NZは地球上の辺境の地にある。 あまりにも周りと遮断されているので動植物は独特の変化を遂げている。 その歴史的事実を真摯に受け取ると、「周りを注意深く観察していないと、自分たちだけ変な方向に進んでしまう/もしくは全くどこにも進まない」という危機感が強くなるのは必至。

ってことで、たまに行政がNZ内のCEOたちをつれて先進国のウルトラ最新技術を開発している企業やゲームセッターになるような企業に視察旅行に行く。 今回の「未来を考える会」では、うちのCEOがその視察でみてきた話をいろいろ紹介された。

まず、医療と教育についての未来予想を聞いた後に、だんだんと自分たちの今いる産業の変化についての話をした。

医療と教育を例題として出した理由は、その領域に起こるだろう変化がほかのどれよりも強烈で、そして人生の根幹に関わる変化だからだ。

出てきた話は極端な話なので、SF程度に聞いていたのだけど、とても興味深かった。 医療の進化に伴い、これから20年後ぐらいに生まれる人たちは推定として、150歳ぐらいまでは生きるようになるそう。 そして彼らの人生の中のある時期からもしかしたら、死そのものが、非常に稀なものになるかもしれないという話だった。 すごいね。

いろんな医療器具のプレゼンを受ける。 いろんな技術が戦場で使うために開発されたもので、先端技術のためには戦争って最高の実りの場なのね。 

もしかしたら私は人類史上、最後に寿命があった世代に属するのかもしれない。 自分が死ぬ頃には、自分の親の事とかを思い、「なんて遠い過去に彼らの人生はあったのだろう。そして私自身の命も、その遠い、遠い過去に投げ捨てられるのだ」なんて切なく思うかもね。 死なない若造たちに囲まれながら、死の床にて親を思うとな。

教育についての変化も面白かった。 Kahn Academyという組織が例として出て来た。Kahn Academyは誰にでも、世界水準に教育を提供する事を指名としている非営利団体だ。 すごく若い兄ちゃん(カーンさん)が始めて、あっという間に世界中に広がった。 

是非下のビデオを見てみて。



これは面白い! それにすごくいい! もしかしたら私の子供は、どこかランダムな場所に住んでいても、カルカッタの子供に数学を教えてもらったり、カタールの子供に歴史を教えたりってするのかもしれない。 どれだけ楽しいんだ。

そして出版や印刷技術、物流などの話しになっていった。 「例えば10年後、自分たちのビジネスが同じような形で残っているか、成長しているか」という話しになった時点で、強烈に「変化を受け入れて、変化を楽しまないと、多分お先真っ暗」って気持ちになった。 同時に強烈にワクワク。 楽しいことがきっと沢山待っている!

私のじいちゃんは、明治生まれだ。 私にとっての太平洋戦争的近過去は、じいちゃんにとっては江戸時代だった。 そして青春を数々の戦争、社会人として油がのってきた頃に第二次世界大戦終戦、その後は高度成長期、死ぬ頃には日本は経済大国になりバブルまっただ中だった。 それぐらいのイベントと変化が人の一生の間にはおこりうると考えてみると、とりあえず、自分の子供が私とは全く違う環境で育ち、社会人になるだろうって事は軽く想像できる。

会社の人達と、私にとっては私の子供世代が成人するぐらいの年代(2030年ぐらい)に、自分自身が社会の中で仕事の出来る人として残れているかっていう話しをした。 むむむん。 分からん。 でも残ってなくちゃ話しにならないから、残るしかないだろう。

2030年ぐらいのときって、自分は一体どこの誰と仕事をしているだろうか。 出来るだけエキサイティングで面白い若い子と仕事ができているといいよなと思います。 今の世界地図上でだと想像もつかないような所出身の子だと良いなぁ。 「うわ〜! 君が産まれたときぐらいの、君の出身国のニュース見たよ! あそこで育ったのかぁ」って感慨に浸りたいね。